宮沢賢治
【概説】
大正から昭和初期にかけて活動した岩手県出身の詩人・童話作家。郷土の農民の生活向上と農業指導に身を投じるかたわら、熱烈な法華経信仰と独自の自然科学的知識に基づいた『銀河鉄道の夜』や詩「雨ニモマケズ」などの名作を遺した。
富裕な生い立ちと法華経への傾倒
宮沢賢治は1896(明治29)年、岩手県花巻の富裕な質屋・古着商の長男として生まれた。幼少期から成績優秀であったが、実家の家業が困窮する農民から搾取して成り立っているという現実に深く悩み、家督の継承を拒むようになる。この農民に対する深い同情とある種の罪悪感が、後の彼の行動原理の根底を形成することとなった。
進学した盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)では、地質学や土壌学、化学などの自然科学を学ぶ一方で、島地大等編『漢和対照妙法蓮華経』を読んで深い感銘を受け、熱烈な法華経信仰に目覚めた。のちに田中智学が創設した国柱会に入会するなど、彼の文学の根底に流れる自己犠牲精神や万物共生の思想は、この宗教的裏付けがあってこそ確立されたものである。
理想郷「イーハトーブ」と独自の文学世界
賢治は花巻農学校の教員を務めながら創作活動を本格化させた。彼は故郷である岩手県をモチーフに、自然と人間が調和する架空の理想郷「イーハトーブ」を構想し、その世界観を背景に多数の童話や詩を執筆した。1924(大正13)年には、生前唯一の出版物となる心象スケッチ(詩集)『春と修羅』と、童話集『注文の多い料理店』を自費出版している。
当時の日本文学界は、プロレタリア文学やモダニズム文学が隆盛を極めていた大正デモクラシー期であったが、賢治の作品はそれらの潮流とは一線を画していた。科学的な宇宙観と土俗的な自然観、そして法華経の絶対愛が融合した独自の世界は同時代にはほとんど理解されず、生前は無名のままに終わった。
羅須地人協会の設立と農村での実践
1926(大正15)年、賢治は農学校を退職し、自ら農村に飛び込んで羅須地人協会(らすちじんきょうかい)を設立した。私財を投じて農民に最新の肥料設計や農業技術を無償で指導するだけでなく、レコード鑑賞や合奏など、農村に芸術や文化を根付かせようとする啓蒙活動も展開した。
しかし、当時の東北地方は冷害による凶作が頻発しており、やがて昭和恐慌の波に飲み込まれ深刻な疲弊に陥っていく過酷な時期であった。厳しい自然環境と貧困にあえぐ農民たちにとって、賢治の掲げる理想主義的な農業芸術論は必ずしも容易に受け入れられず、警察からは社会主義的な集会と疑われるなど、現実の壁に直面して挫折を余儀なくされた。この奔走の中で賢治は体を壊し、結核に倒れることとなる。
歴史的意義と没後の再評価
病床にあっても創作や農業指導への情熱は衰えなかったが、1933(昭和8)年、急性肺炎により37歳の若さでこの世を去った。死の直前に手帳に書き記されたのが、自己犠牲と利他の精神を詠んだ絶唱「雨ニモマケズ」である。没後、草野心平らの尽力によって全集が刊行されると、その文学的価値と思想が急速に再評価され、国民的作家としての地位を確立した。
宮沢賢治の生涯は、資本主義と近代化が急速に進む日本社会において、取り残された東北の農村の現実に真摯に向き合った実践の軌跡である。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と説いた彼の宇宙論的な共生思想は、環境問題や行き過ぎた物質文明が問われる現代において一層の輝きを放ち、日本文化史・思想史において特異かつ重要な位置を占めている。