西軍(応仁の乱)
【概説】
応仁の乱において、有力守護大名である山名宗全(持豊)を事実上の総大将として結成された諸大名の連合軍。京都の将軍邸(花の御所)の西側に陣を構えたことから「西軍」と称され、細川勝元率いる東軍と11年にわたる激しい抗争を繰り広げた。
西軍形成の背景と主要な構成勢力
室町時代中期、幕府の実権を巡って管領の細川勝元と、四職の家柄で強大な勢力を誇った山名宗全が激しく対立していた。この両者の権力闘争に、将軍足利義政の継嗣問題や、畠山氏・斯波氏といった有力管領家の家督争いが複雑に絡み合い、全国の守護大名が二つに割れることとなった。1467年(応仁元年)、宗全は自邸のある京都の内野(現在の京都市上京区付近)に諸大名の軍勢を集結させた。これが西軍である。
西軍には、山名氏の一族のほか、家督争いで宗全の支援を受けた畠山義就や斯波義廉などが加わった。さらに、西国屈指の大勢力であった周防・長門の守護・大内政弘が数万の軍勢を率いて入京したことで、西軍は強大な軍事力を誇るようになった。兵力においては、一時的に東軍を凌駕するほどであった。
市街戦の激化と「西陣」の由来
西軍は山名宗全の邸宅を中心に陣を張り、京都の西半分を制圧した。一方、東軍は将軍邸である室町第(花の御所)や細川勝元の邸宅がある東側に陣を構え、京都市街を東西に二分する激しい市街戦が展開された。この戦火によって、京都の街は焦土と化した。
乱が終結した後、西軍が陣地を置いていた一帯には、戦乱を逃れていた織物職人たちが戻り、再び織物業を復興させた。この地域は西軍の陣地跡であったことから西陣と呼ばれるようになり、現在でも日本を代表する高級絹織物「西陣織」の産地としてその名を残している。
「西幕府」の成立と乱の長期化
開戦当初、将軍の足利義政や後土御門天皇は東軍側に確保されていたため、西軍は「賊軍」として討伐される不当な立場に置かれる危機にあった。しかし、1468年(応仁2年)、東軍内で孤立を深めていた足利義政の弟・足利義視が西軍へと出奔する事態が発生する。西軍は義視を大将として迎え入れ、彼を「新将軍」として推戴した。
さらに西軍は独自の幕府機構を整備し、義視の名のもとに所領安堵の御内書を発給するなど、独立した政権のごとく振る舞った。これを歴史学では「西幕府」と呼ぶ。西軍が天皇や本来の将軍に対抗しうる独自の正当性を獲得したことは、乱が11年にも及ぶ未曾有の長期戦へと泥沼化する決定的な要因となった。
西軍の解体と応仁の乱の終結
長引く戦乱により東西両軍ともに疲弊の色が濃くなる中、1473年(文明5年)に西軍の総大将である山名宗全が病死し、直後に東軍の細川勝元もこの世を去った。これを機に、東西両軍の間で和睦の気運が高まっていった。また、足利義政が隠居し、実子である足利義尚が将軍職を継いだことで、戦いの大義名分は失われつつあった。
最終的に1477年(文明9年)、西軍の主力として最後まで京都に駐留していた大内政弘が、幕府から領国安堵などの条件を引き出して和睦に応じ、軍を率いて周防へと撤退した。足利義視も美濃国へと下向し、ここに西軍は事実上解体され、応仁の乱は終結した。西軍の解体と諸大名の帰国によって京都の戦火は収まったものの、一連の争乱を通じて室町幕府の権威は大きく失墜し、日本は本格的な戦国時代へと突入していくこととなる。