貿易摩擦
【概説】
高度経済成長期以降、日本の輸出が急増した結果、アメリカやヨーロッパなどの輸入国との間で生じた経済的・政治的対立。特に1970年代から1990年代にかけての日米間における摩擦が激化し、プラザ合意などの為替調整や内需拡大策を引き出し、その後の日本経済の構造転換やバブル経済発生の大きな要因となった。
日米貿易摩擦の背景と発端
第二次世界大戦後、アメリカの強力な経済的支援と自由貿易体制(GATT)の恩恵を受けた日本は、急速な工業化と経済復興を成し遂げた。1960年代後半に至ると、日本の国際競争力は著しく向上し、1965年には日米貿易収支が初めて日本の黒字(アメリカの赤字)に逆転した。これが長きにわたる貿易摩擦の端緒となる。
初期の貿易摩擦は、主に労働集約型産業である繊維分野で発生した。1969年、アメリカのニクソン大統領が公約として日本からの繊維製品輸入規制を求めたことで、日米両国政府間で激しい対立が生じた(日米繊維交渉)。最終的に日本側が政府間協定に基づく輸出自主規制を受け入れることで決着したが、この背後には佐藤栄作政権が最重要課題として推進していた「沖縄返還」との政治的バーターがあったとも言われている。
1980年代の激化と対象品目の高度化
1970年代に入ると、日本の輸出主力品目は鉄鋼やカラーテレビなどへと移行し、それぞれにおいてダンピング提訴や輸出自主規制が行われた。そして1980年代、摩擦の主戦場は自動車とハイテク産業(半導体など)へと移る。
特に自動車摩擦は深刻を極めた。二度の石油危機(オイルショック)を経て、燃費の良い日本車の需要がアメリカ国内で急増する一方、アメリカのビッグスリー(三大自動車メーカー)は深刻な経営不振に陥り、大量の失業者を生み出した。アメリカ国内で日本車をハンマーで叩き壊すパフォーマンスが行われるなど、反日感情が社会問題化した。これに対し日本政府は1981年、アメリカ向け乗用車の輸出自主規制を実施し、事態の沈静化を図った。
さらに1980年代半ばには、日本の半導体産業が世界シェアを席巻し、安全保障上の危機感を抱いたアメリカとの間で日米半導体摩擦が勃発した。1986年の日米半導体協定により、日本市場における外国製半導体のシェア拡大が事実上義務付けられるなど、極めて異例の管理貿易的措置がとられた。
プラザ合意と構造協議による内政への介入
個別の品目交渉ではアメリカの貿易赤字が根本的に解消されなかったため、アメリカはマクロ経済政策や日本の経済構造そのものにメスを入れるようになる。1985年、先進5カ国(G5)の蔵相・中央銀行総裁は、ドル高是正のための協調介入に合意した(プラザ合意)。これにより急激な円高・ドル安が進行し、日本の輸出産業は深刻な打撃を受けた。
また、日本側は1986年の「前川レポート(国際協調のための経済構造調整研究会報告書)」において、輸出主導から内需主導型経済への転換を提唱した。しかしアメリカの不満は収まらず、1989年には日米構造協議が開始された。ここでは、日本の系列取引、大規模小売店舗法(大店法)の規制、公共投資の規模など、従来の関税交渉の枠を超えた日本の国内制度やビジネス慣行そのものが「非関税障壁」としてターゲットにされた。同時期には、EC(のちのEU)との間でもビデオデッキなどを巡る摩擦が生じており、日本は欧米社会からの強い市場開放圧力に晒され続けた。
歴史的意義と日本経済に与えた影響
1970年代から90年代にかけての貿易摩擦は、戦後日本経済の構造的な転換点を象徴する事象である。摩擦を回避するため、トヨタやホンダをはじめとする日本の製造業は、アメリカやヨーロッパへの現地生産(工場進出)を本格化させた。これは摩擦緩和に寄与した一方で、結果として国内産業の空洞化を招く一因となった。
また、プラザ合意による急激な円高不況を克服するため、日本銀行は強力な金融緩和を実施した。あわせて内需拡大を図るための積極的な財政出動が行われた結果、市場に溢れた過剰な資金が株式や不動産市場に流れ込み、1980年代後半のバブル経済を引き起こすこととなった。その後のバブル崩壊と「失われた20年」と呼ばれる長期的な経済低迷は、貿易摩擦に対する一連の政策的対応がもたらした歴史的な帰結であると評価できる。