答礼使 (とうれいし)
【概説】
日本の遣隋使や遣唐使などの外交使節の派遣に対し、相手国の王朝から日本へ返礼のために派遣された使節。東アジアの国際緊張のなかで、大陸の先進的な王朝と日本(倭国)との双方向の外交交渉を実証する重要な存在である。
答礼使の歴史的背景と外交的意義
飛鳥時代から奈良時代にかけて、倭国(日本)は中国大陸の統一王朝である隋や唐に対し、積極的に使節を派遣した。これに対し、大陸の王朝側が日本への返礼や外交交渉のために派遣した使節が答礼使である。これは単なる礼儀上の往復にとどまらず、当時の東アジアにおけるパワーバランスや外交秩序を反映する極めて政治的な性質を帯びていた。
当時の中国王朝は、周辺諸国が貢物を携えて皇帝に臣従を誓う冊封(さくほう)体制を理想としていた。しかし、倭国は「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という国書に象徴されるように、隋や唐に対して一定の自立性を保った対等な外交関係を模索していた。こうした倭国側の強い自己主張に対し、大陸王朝が自らの権威を誇示しつつ、朝鮮半島情勢などにおいて倭国を自陣営に引き入れる、あるいは中立化させるための懐柔策として答礼使が活用されたのである。
代表的な答礼使:隋の裴世清の来日
答礼使の最も有名な具体例が、608年に隋の煬帝から派遣された裴世清(はいせいせい)である。前年の607年、推古天皇の朝廷は小野妹子らを遣隋使として派遣し、対等外交を求める国書を提出した。煬帝はこれに不快感を示したものの、当時対立していた高句麗の背後にある倭国と友好関係を維持しておく必要性から、小野妹子の帰国に同行させる形で裴世清を答礼使として日本へ送った。
裴世清の来日は倭国にとって大事件であり、朝廷は難波宮から飛鳥の小墾田宮(おはりだのみや)に至るルートを整備し、盛大な儀式をもって歓迎した。裴世清は隋側の国書を奏上し、倭国を「海東の地」として認めつつも独自の外交序列に組み込もうとした。この交渉は、聖徳太子(厩戸王)らが大陸の制度や国際法を学ぶ決定的な契機となり、その後の国家体制整備(冠位十二階や憲法十七条など)へとつながっていった。
対唐交渉と答礼使をめぐる摩擦
隋が滅亡し唐が成立した後も、日本は遣唐使を派遣し、それに対する唐からの答礼使も来日した。630年に犬上御田鍬が第1回遣唐使として派遣された際、これに応える形で632年に唐の太宗から答礼使として高表仁(こうひょうじん)が派遣された。
しかし、高表仁の来日は裴世清の時のように円滑には進まなかった。高表仁は日本の朝廷(舒明天皇)に対し、唐の皇帝に対する臣下の礼を求めたが、日本側がこれを拒否した。この「礼」をめぐる激しい対立の結果、高表仁は国書を正式に読み上げることなく不快感を抱いたまま帰国することとなった。この事件は、唐の「中華思想」に基づく君臣関係の押し付けと、独自の君主観を固めつつあった日本の「天皇」を中心とする律令国家形成期における自負との衝突を示す好例である。これ以降、日本は唐に対して朝貢形式(臣下としての使節派遣)をとりつつも、国内向けには大陸の冊封を受けない「独立した帝国」としての姿勢を強め、唐からの答礼使の受け入れは途絶えることとなった。