煬帝 (ようだい)
【概説】
中国・隋王朝の第2代皇帝。大運河の開削や度重なる高句麗遠征など、強権的な国家事業を推進したことで知られる。日本史においては、第2回遣隋使の小野妹子が持参した国書の表現に激怒したものの、高句麗との対立という国際情勢から倭国(日本)との国交維持を選択した皇帝として位置づけられる。
対等外交への挑戦と煬帝の憤慨
607年(推古天皇15年)、倭国の聖徳太子(厩戸王)らが主導して派遣した第2回遣隋使の使節・小野妹子は、隋の首都である大興城(長安)で煬帝に謁見した。この時、妹子が持参した国書に記されていた「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」という有名な一節が、煬帝の逆鱗に触れることとなった。
当時の東アジアは、中国の皇帝を中心とし、周辺諸国の君主が皇帝に朝貢して冊封を受けるという「華夷秩序(朝貢体制)」によって統制されていた。この秩序において「天子」を名乗れるのは中国皇帝のみであり、東方の蛮国とみなされていた倭国の首長が自らと同格の「天子」を自称したことは、煬帝にとって看過しがたい無礼であった。そのため煬帝は、外交担当官である鴻臚卿(こうりょけい)に対し、「蛮夷の書に無礼なるものあらば、復た以て聞するなかれ(二度とこのような無礼な国書を自分に見せるな)」と命じ、不快感を露わにしたことが『隋書』東夷伝倭国条に記録されている。
激怒の裏にある隋の対外情勢と「裴世清」の派遣
国書の表現に激怒した煬帝であったが、倭国との国交を断絶するような強硬手段には出なかった。それどころか翌608年には、返礼の使節(答礼使)として朝散大夫の裴世清(はいせいせい)を倭国へと派遣し、丁重な外交姿勢を示している。この背景には、当時の隋を取り巻く極めて緊張した東アジアの国際情勢が存在していた。
当時の隋は、北方の遊牧国家である突厥や、朝鮮半島の強国である高句麗と鋭く対立していた。特に高句麗との戦争(高句麗遠征)を控えていた煬帝にとって、背後に位置する倭国が高句麗と結託して挟み撃ちの状況を作られることは、安全保障上の重大なリスクであった。そのため煬帝は、倭国の無礼に対して大人の対応(現実主義外交)をとり、倭国を隋の勢力圏に繋ぎ止めておくために裴世清を派遣して、関係維持を図ったのである。日本側もこの隋の状況を冷徹に見極めており、だからこそ「対等外交」という大胆な要求を突きつけることが可能であったと考えられている。
煬帝の治世と隋の滅亡が日本に与えた影響
煬帝は、南北に分断されていた中国を再統一した父・文帝の政策を引き継ぎ、華中と華北を結ぶ大運河の開削という歴史的な大事業を成功させた。しかし、この運河建設に伴う極端な動員と、3度にわたる無謀な高句麗遠征の失敗は、民衆に甚大な負担を強いることとなった。その結果、中国各地で農民反乱が頻発し、国家は急速に求心力を失っていった。最終的に煬帝は、滞在先であった江都(揚州)において、側近の宇文化及らによって暗殺され、隋はわずか2代で滅亡の憂き目を見ることとなった。
煬帝の時代に倭国から隋へ派遣された遣隋使や、小野妹子に同行した高向玄理、旻(みん)、南淵請安らの留学生・留学僧たちは、煬帝による大帝国の全盛期と、それが過度な民衆支配と外征によって瞬く間に崩壊していくプロセスを現地で直接目撃した。彼らが帰国後にもたらした中国の高度な律令制度や、隋の滅亡および唐の建国という生々しい政治動向の情報は、のちの中大兄皇子や中臣鎌足らによる大化の改新(645年)において、日本の律令国家建設に向けた極めて重要な指針となったのである。