畠山持富 (はたけやまもちとみ)
?〜1452
【概説】
室町時代中期の武将で、三管領家の一つである畠山氏の当主・畠山持国の弟。兄に当初実子がなかったため後継者に据えられたが、のちに実子である義就が誕生したことで廃嫡され、のちの応仁の乱の契機となる畠山氏家督争いの発端となった人物。
家督継承をめぐる混乱と廃嫡
室町幕府の有力守護大名である畠山氏は、細川氏・斯波氏と並び管領を輩出する名門であった。当主の畠山持国には長く後継者となる男子がいなかったため、弟である持富を養子に迎えて後嗣とした。しかし1448年、持国に実子(庶子)の畠山義就が誕生(あるいは存在が公認)すると、持国は持富を廃して義就を後継者に据えようとした。この強引な後継者変更に、畠山氏の有力守護代である遊佐氏や神保氏ら家臣団の一部が猛反発し、持富を擁立して持国・義就父子と激しく対立することとなった。
お家騒動の継続と「応仁の乱」への発展
持富自身は家督争いの最中である1452年に没するが、家督をめぐる対立は終息しなかった。持富を支持していた家臣団は、持富の息子である畠山政久(弥三郎)、次いでその弟の畠山政長を擁立して義就への抵抗を続けた。この畠山氏の内紛は、室町幕府将軍・足利義政の優柔不断な介入や、守護大名の細川勝元と山名宗全による主導権争いと複雑に結びつき、斯波氏の家督争いなどとともに、1467年に勃発する応仁の乱の直接的な引き金となった。持富の存在とその廃嫡問題は、室町幕府の衰退を決定づけた大乱の遠因として極めて重要な歴史的意味を持っている。