冷戦終結
【概説】
1989年12月のマルタ会談において、アメリカとソ連の首脳が第二次世界大戦後から続いた東西冷戦の終結を宣言した歴史的出来事。これにより国際社会の対立構造が大きく転換し、日本を取り巻く安全保障環境や国内の政治状況にも多大な影響を与えた。
冷戦構造の崩壊とマルタ会談
1980年代後半、ソ連のゴルバチョフ書記長がペレストロイカ(改革)と新思考外交を展開したことで、東西間の緊張緩和が急速に進展した。1989年には東欧諸国で民主化運動(東欧革命)が連鎖的に発生し、東西分断の象徴であったベルリンの壁が崩壊した。同年12月、地中海のマルタ島においてアメリカのブッシュ(父)大統領とゴルバチョフ書記長による首脳会談(マルタ会談)が行われ、冷戦の終結が公式に宣言された。これにより、第二次世界大戦後の世界を規定してきた「資本主義陣営(西側)」対「社会主義陣営(東側)」という米ソ二極対立の構造は幕を閉じた。
「55年体制」の終焉と政治再編
冷戦終結は、世界史的出来事であると同時に、日本の国内政治にも決定的な転換をもたらした。1955年以降の日本政治は、保守の自由民主党と革新の日本社会党が対峙する「55年体制」が続いていた。これは国際社会における東西冷戦を国内に投影した構図であったが、冷戦終結とそれに続く1991年のソ連崩壊により、社会党はそのイデオロギー的な支柱と存在意義を大きく喪失した。同時に、自民党も「反共の防波堤」としての役割を終え、折からの政治腐敗(リクルート事件や東京佐川急便事件など)に対する国民の不満が一気に噴出した。その結果、1993年の総選挙で自民党は過半数割れを起こし、細川護熙を首相とする非自民・非共産連立政権が誕生。38年続いた55年体制は崩壊し、日本は政界再編の激動期へと突入したのである。
安全保障環境の変化と「国際貢献」の模索
冷戦期、日本の安全保障は日米安全保障条約を基軸とし、もっぱらソ連の脅威に対する防衛に主眼が置かれていた。しかし冷戦終結直後の1990年に勃発した湾岸危機と翌年の湾岸戦争において、日本は多額の資金援助(約130億ドル)を行いながらも、人的貢献を行わなかったことから「カネだけ出して血を流さない」と国際社会の強い非難を浴びた。この「湾岸のトラウマ」を契機として、日本国内で国際社会に対する貢献のあり方が激しく議論されるようになった。その結果、1992年にPKO協力法(国連平和維持活動等協力法)が成立し、自衛隊のカンボジア派遣(UNTAC)が実現した。これは戦後日本の安全保障政策が、一国平和主義的な姿勢から積極的な人的国際貢献へと踏み出す歴史的転換点となった。
東アジアにおける冷戦の残滓
ヨーロッパを中心に冷戦は劇的な終結を迎えたが、日本が位置する東アジアにおいては事情が異なった。朝鮮半島の南北対立や台湾海峡問題、日本の北方領土問題など、冷戦期に起因する分断構造や領土問題は根本的な解決を見ず、冷戦の残滓として残り続けた。さらに、ソ連の脅威が後退した一方で、改革開放を経て経済的・軍事的に台頭する中国や、核・ミサイル開発を推し進める北朝鮮という新たな脅威が浮上した。冷戦終結後の日本は、こうした複雑化する東アジア情勢のなかで日米同盟の意義を再定義し、流動化する国際社会における新たな外交・安全保障戦略の構築を迫られ続けることとなった。