崇峻天皇 (すしゅんてんのう)
【概説】
飛鳥時代、第32代に位置づけられる天皇。有力豪族である蘇我馬子の後ろ盾によって即位したものの、のちに政治の主導権をめぐって馬子と対立し、臣下の手によって暗殺された悲劇の君主。日本の正史において、臣下によって暗殺されたことが明記されている極めて異例の天皇である。
丁未の乱と即位の背景
崇峻天皇(諱は泊瀬部皇子/はつせべのみこ)は、欽明天皇の皇子として生まれた。母は蘇我稲目の娘である小姉君(お姉君)であり、蘇我馬子にとっては甥にあたる人物である。
当時、朝廷内では仏教受容をめぐって崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏が激しく対立していた。587年、用明天皇の崩御にともなう皇位継承争いを発端として、両者は武力衝突へと至る(丁未の乱/ていびのらん)。この戦いで蘇我馬子が物部守屋を滅ぼしたことにより、物部氏は没落し、蘇我氏の一強体制が確立された。戦後、馬子の強力な主導権のもとで即位したのが崇峻天皇であった。しかし、この即位は蘇我氏の傀儡としての性格が極めて強いものであった。
蘇我馬子との対立と暗殺の経緯
即位した崇峻天皇であったが、政治の実権を掌握し続ける叔父・蘇我馬子に対して、次第に強い不満を抱くようになった。天皇としての主体的な親政を望む崇峻天皇と、執政者として権力を維持しようとする馬子との亀裂は、年を追うごとに深まっていった。
『日本書紀』によれば、592年10月、猪を献上された崇峻天皇が、群臣の前で「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思う者を斬りたいものだ」と呟き、自らの刀を抜いて猪の目を刺したという。この発言を知った馬子は、天皇が自分を殺害しようとしていると確信し、先手を打つことを決意した。同年11月、馬子は配下の渡来系豪族である東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を刺客として送り込み、崇峻天皇を暗殺させた。崩御後、天皇の遺体はその日のうちに葬られ、殯(もがり)の儀式も行われないという、天皇としては極めて異例かつ冷遇された扱いを受けた。
暗殺事件がもたらした歴史的影響
崇峻天皇の暗殺は、臣下が天皇を殺害するという前代未聞のクーデターであり、蘇我氏の権勢が王権(皇権)を凌駕したことを天下に知らしめる事件となった。しかし、この暴挙は諸豪族の反発を招く恐れがあったため、馬子は政局の安定化を急いだ。
馬子は、次期天皇として欽明天皇の皇女であり、自身にとってもう一人の姪にあたる額田部皇女を擁立した。これが日本史上初の公認された女帝である推古天皇である。さらに、推古天皇のもとで厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子・摂政に立てられ、蘇我馬子と協調しつつ国政をリードする体制が整えられた。崇峻天皇の暗殺という異常事態は、結果として、冠位十二階や憲法十七条の制定、遣隋使の派遣といった、天皇を中心とする中央集権国家(律令国家)の形成に向けた政治改革を急がせる契機となったのである。