畠山政長 (はたけやままさなが)
【概説】
室町幕府の管領を務めた守護大名。畠山氏の家督をめぐって従兄弟の畠山義就と激しく対立し、応仁の乱を勃発させる直接の契機を作った。乱の終息後も河内国などで義就一族との闘争を継続したが、最期は細川政元のクーデター(明応の政変)によって自害に追い込まれた。
畠山氏の家督争いと応仁の乱の勃発
畠山政長は、室町幕府の要職である管領を出す名門・畠山氏の一族に生まれた。当時の畠山氏では、当主の畠山持国に実子・畠山義就が生まれる前後から、家督継承をめぐる内訌が激化していた。当初は政長の兄である弥三郎が義就と対立していたが、弥三郎の没後に政長がその跡を継ぎ、義就との抗争を本格化させた。
この家督争いは、幕府内の権力闘争と深く結びついていく。時の8代将軍・足利義政の気まぐれな態度や、有力守護大名である細川勝元と山名宗全の主導権争いがこれに介入したことで事態は泥沼化した。政長は細川勝元の支援を得て家督を認められ、一時は管領に就任する。しかし、これに不満を持つ山名宗全が義就を抱き込んで政長を失脚させようとしたため、両者の対立は限界に達した。
1467年(応仁元年)1月、政長は京都の上御霊神社に布陣し、義就の軍勢と激突した(御霊合戦)。この衝突を機に、細川勝元率いる東軍と山名宗全率いる西軍の全面衝突、すなわち応仁の乱が勃発することとなった。
地域紛争への変質と明応の政変における終焉
約11年にわたる応仁の乱において、政長は一貫して東軍の主力として戦った。しかし、応仁の乱が特定の勝者なきまま有耶無耶に終息したあとも、政長と義就の私闘は終わらなかった。戦舞台は京都から両者の領国である河内国、大和国、山城国などへと移り、地域社会に深刻な疲弊をもたらした。1485年(文明17年)には、両軍の度重なる軍事行動に耐えかねた国人や農民らが蜂起し、両軍の撤退を求めた山城国一揆が発生したことからも、この抗争の泥沼化の様子がうかがえる。
政長はのちに将軍となった足利義材(のちの義稙)と結び、軍事力を背景に幕府の主導権を握ろうとした。1493年(明応2年)、義材とともに義就の子である畠山義豊を討つべく河内国へ遠征したが、この隙を突いて京都で守護大名・細川政元によるクーデターが勃発する。これが戦国時代の本格的な幕開けとされる明応の政変である。政長は河内の正覚寺城で包囲され、進退極まって自害した。政長の死は、室町幕府の権威失墜と、管領家たる畠山氏の衰退を決定づける象徴的な出来事となった。