細川勝元
【概説】
応仁の乱において東軍の総大将を務め、西軍の山名宗全と激しく争った室町幕府の守護大名・管領。第8代将軍・足利義政の治世下で幕政を主導する一方、将軍家の継嗣問題や諸大名の家督争いに深く介入し、京都を焦土と化す大乱を引き起こした。
細川京兆家の当主と若き管領
細川氏は足利氏の一門であり、中でも勝元の属する京兆家(けいちょうけ)は、代々室町幕府の管領に就任できる「三管領(細川・斯波・畠山)」の筆頭格であった。勝元は父・細川持之の死により若くして家督を継承し、1445年(文安2年)にわずか16歳で管領に就任した。以後、第8代将軍・足利義政の代において3度にわたり管領を務め、摂津・丹波・讃岐・土佐などの守護を兼任しながら、幕政の最高責任者として絶大な権力を握った。
山名宗全との同盟から対立へ
勝元は当初、西国の有力な守護大名であった山名宗全(持豊)の養女を正室に迎え、強固な同盟関係を結んで協調体制を敷いていた。しかし、嘉吉の乱で没落した赤松氏の再興問題が浮上すると両者の関係に亀裂が入る。赤松氏討伐の功労者として旧領を支配していた宗全が再興に猛反対したのに対し、勝元は自らの勢力拡大を図って赤松政則の再興を支援したためである。さらに、幕府の重鎮である畠山氏(政長と義就)や斯波氏(義敏と義廉)の家督争いにおいて、勝元と宗全は互いに対立する陣営を支援し合うようになり、権力闘争は激化していった。
将軍継嗣問題と応仁の乱の勃発
こうした大名間の派閥争いに火を注いだのが、将軍家の継嗣問題であった。足利義政の後嗣が決まらなかったため、勝元は義政の弟・足利義視(よしみ)の後見人となった。ところがその後、義政の正室・日野富子に男子(のちの足利義尚)が誕生すると、富子は宗全を頼って義尚の将軍就任を画策したのである。諸大名の権力闘争と将軍家の継嗣問題が複雑に絡み合い、1467年(応仁元年)に応仁の乱が勃発した。勝元は将軍の居館である花の御所周辺に陣を敷いて東軍の総大将となり、約16万とも言われる大軍を動員して、宗全率いる西軍と真っ向から激突した。
大乱の泥沼化と勝元の最期
戦乱はまたたく間に京都の市街地を焦土と化したが、両軍の兵力は伯仲しており、戦況は次第に膠着状態に陥った。その過程で、当初東軍に擁立されていた足利義視が義政と対立して西軍へ奔り、逆に東軍が足利義尚を擁するなど、大義名分のねじれや陣営の入れ替わりが発生した。乱が泥沼化する中、1473年(文明5年)3月に宿敵である山名宗全が病死すると、そのわずか2ヶ月後の5月、勝元も後を追うように44歳で陣没した。両総大将の死は、11年に及んだ応仁の乱が最終的に収束へと向かう大きな転換点となった。
龍安寺の創建と文化的功績
権力闘争に明け暮れた政治家・武将としての側面が強調されがちな勝元であるが、禅宗を深く信仰し、室町時代の文化に多大な貢献を残している。1450年(宝徳2年)、勝元は徳大寺家の山荘を譲り受け、京都に名刹・龍安寺を創建した。枯山水の石庭で世界的に知られる同寺は、勝元の文化的教養の高さを示すものである。彼は和歌や有職故実にも通じた教養人であり、東山文化の形成期をパトロンとして支えた側面も歴史的に高く評価されている。