東軍(応仁の乱)
【概説】
室町時代中期の応仁の乱において、管領の細川勝元を総大将として結集した守護大名たちの軍勢。室町幕府(花の御所)や天皇の御所を守護する形で京都の東側に陣を敷いたことから「東軍」と呼ばれ、山名宗全率いる「西軍」と11年に及ぶ激しい争いを繰り広げた。
東軍の形成と正当性の確保
応仁の乱は、将軍・足利義政の継嗣問題に加え、管領家である斯波氏や畠山氏の家督争いが複雑に絡み合い、全国の守護大名が二分されることで勃発した。その中で、幕府の有力実力者であった管領・細川勝元を盟主として結成されたのが東軍である。
東軍の最大の強みは、幕府の中枢である花の御所(室町殿)周辺をいち早く占拠し、将軍・足利義政や、後土御門天皇および後花園上皇を自陣営内に確保した点にあった。これにより東軍は天皇と将軍を擁する「官軍」としての正当性を獲得し、対抗する山名宗全らの西軍を「賊軍(反乱軍)」と位置づけることに成功した。義政から西軍討伐の御内書(将軍の命令書)を引き出すなど、大義名分において圧倒的な優位に立っていた。
主要な構成勢力と陣立て
東軍には、総大将の細川勝元をはじめ、細川氏一門、そして勝元と結んだ畠山政長や斯波義敏らが参加した。さらに、嘉吉の乱で没落した後に御家再興を狙う赤松政則や、京極持清、武田信賢といった有力な守護大名が名を連ねた。総兵力はおよそ16万とも言われ、全国各地から集結した軍勢が相国寺周辺など京都の東・北部に布陣した。
また、東軍陣営では足軽と呼ばれる非正規の傭兵集団も活躍した。有名な骨皮道賢などは細川勝元に金銭で雇われ、後方撹乱やゲリラ戦、略奪行為を行って西軍を苦しめたが、同時に京都の市街地を灰燼に帰す一因ともなった。
西軍との激戦と戦局の膠着
1467年(応仁元年)5月、両軍は京都で本格的な戦闘状態に入った。当初は「官軍」たる東軍が有利に戦局を進め、9月の相国寺の戦いなどの激戦を通じて激しく西軍と衝突した。しかし、同年8月に西国の有力大名・大内政弘が大軍を率いて上京し西軍に合流すると、形勢は逆転して戦線は膠着状態に陥った。
さらに、当初は東軍に庇護されていた将軍の弟・足利義視が、勝元との対立などから出奔し、のちに西軍の総大将として迎えられるという事態が発生する。これにより西軍側も独自の幕府機構(西幕府)を立ち上げ、東軍の「正当性」というアドバンテージは相対化され、戦乱は長期泥沼化の道を辿ることとなった。
乱の終結と東軍のその後
戦乱が10年近く続くなか、京都は焦土と化し、地方でも東軍・西軍に分かれた代理戦争が激化していた。1473年(文明5年)、西軍の山名宗全が病死し、そのわずか約2ヶ月後には東軍の総大将である細川勝元も後を追うように病死した。両軍の首領が相次いで世を去ったことで、次第に厭戦気分が蔓延し始めた。
勝元の子・細川政元は、宗全の孫・山名政豊との間で和睦を模索し、事実上の停戦状態となる。最終的に1477年(文明9年)、最後まで抗戦していた大内政弘が周防国へと撤退したことで、西軍は解体し、応仁の乱は明確な勝敗がつかないまま収束した。東軍の中核を担った細川氏は、戦後も幕府内で最大の権力者としての地位を維持したが、足利将軍家の権威は著しく失墜し、時代は守護大名が自立していく戦国時代へと突入していくのである。