中国国民党

孫文が結成し、のちに蒋介石が軍事的・政治的指導者となって北伐を断行した中国の政党は何か?
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重要度
★★

【参考リンク】
中国国民党(Wikipedia)

中国国民党

1919年〜

【概説】
孫文によって創設され、後に蒋介石の指導のもとで中国統一(北伐)を達成した中国の主要政党。近代日本のアジア外交や軍事政策、とりわけ満州事変から日中戦争に至る過程における最大の対抗勢力となった組織である。

孫文による結党と「連ソ・容共」への転換

中国国民党の前身は、1912年に孫文らが結成した「国民党」や、1914年に東京で結成された「中華革命党」にさかのぼる。第一次世界大戦期の日本による対華21カ条要求や、大戦後の五四運動というナショナリズムの高揚を背景に、1919年に「中国国民党」へと改組された。

当初、孫文は日本からの支援を期待していたが、日本政府が軍閥を支援して中国の分断を画策したため方針を転換。1924年、ソ連の支援を受けて「連ソ・容共・扶助工農」を掲げ、中国共産党との協調(第一次国共合作)に踏み切った。これにより、国民党は単なる志士の集まりから、大衆基盤を持つ強力な近代政党へと脱皮することとなった。

蒋介石の主導する「北伐」と日本との武力衝突

1925年の孫文没後、軍事実権を握った蒋介石は、中国北部の軍閥を打倒して統一を進める北伐(1926〜1928年)を開始した。蒋介石は途中で共産党を排除する上海クーデターを断行し、南京国民政府を樹立した。この動きは、中国における日本の権益、特に満蒙(満州・モンゴル)の特殊権益を脅かすものであった。

日本の田中義一内閣は、北伐の進展による満州への波及を防ぐため、山東出兵を強行して国民政府軍と衝突(済南事件)させた。しかし、北伐の勢いは止まらず、満州の軍閥・張作霖が北京から撤退する事態となる。1928年、日本の関東軍による張作霖爆殺事件を経て、その子・張学良が国民政府への帰順を表明(易幟)したことで、国民党による中国統一が一応の完成を見た。これにより、満州を自国の「生命線」と位置づける日本の陸軍(関東軍)との対立は決定的なものとなった。

抗日ナショナリズムの勃興と日中戦争における抵抗

1931年の満州事変の勃発に対し、蒋介石率いる国民政府は当初、共産党の討伐を優先する「安内攘外」政策をとり、国際連盟への提訴による解決を図った。しかし、日本の度重なる侵略(華北分離工作など)に対し、中国国内では「内戦を停止して一致して日本に抗戦せよ」という抗日世論が沸騰した。

1936年の西安事件を契機に、国民党は共産党との内戦を停止し、第二次国共合作を形成して抗日民族統一戦線を構築した。1937年に日中戦争が本格化すると、国民政府は首都南京を追われながらも、内陸部の重慶に遷都して徹底抗戦を続けた(重慶国民政府)。日本側は近衛文麿首相による「国民政府を対手とせず」の声明や、親日派の汪兆銘を擁立した傀儡政権の樹立によって国民党の切り崩しを図ったが、いずれも失敗に終わった。国民党は、米英などの連合国から「援蒋ルート」を通じて軍事・経済支援を受け、日本軍を中国大陸に釘付けにすることで、日本の敗戦(太平洋戦争の終結)において決定的な役割を果たした。

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中国国民党左派の研究

権力闘争と理念の変遷が交錯する激動の時代において、国民党左派がいかなる政治的役割を担ったかを解明する史学的研究。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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