青島 (ちんたお)
【概説】
中国の山東半島南部に位置する、ドイツの極東における軍事・商業の最大拠点。第一次世界大戦時に日本軍が攻略して以降、その利権をめぐって日中間の激しい外交対立(山東問題)を引き起こした地である。
ドイツの膠州湾租借と青島の近代化
19世紀末、列強による中国(清朝)分割が激化するなか、ドイツは1897年に発生した宣教師殺害事件を口実に膠州湾を占領し、翌1898年に清から99年間の租借権を獲得した。その膠州湾の入り口に位置する青島(チンタオ)は、ドイツ東洋艦隊の根拠地として急速に要塞化が進められた。
同時にドイツは、青島を東アジアにおける代表的な商業港都市として整備した。鉄道(膠済鉄道)の敷設によって山東省内陸部との連結を図り、近代的な都市計画のもとで水道や電気、さらにはビールの醸造業(のちの青島ビール)などの産業を興した。これにより青島は、ドイツの帝国主義的な東アジア進出を象徴する拠点となった。
第一次世界大戦と青島攻略戦
1914年、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発すると、日本(第2次大隈重信内閣)は日英同盟を大義名分として参戦を決定した。日本はドイツに対して青島を含む膠州湾租借地の無条件引き渡しを要求したが、ドイツ側がこれを黙殺したため宣戦を布告した。
同年10月、日本軍はイギリス軍とともに青島への攻撃を開始した(青島攻略戦)。ドイツ軍は堅固な要塞を築いて頑強に抵抗したが、圧倒的な兵力と近代兵器を投入した日本軍の前に、11月には降伏した。日本はこの戦いによって青島および山東省におけるドイツの権益を事実上占領下に置くこととなった。
「山東問題」の発生と中国への返還
青島を占領した日本は、その権益の固定化を図った。1915年、中華民国の袁世凱政府に対して突きつけた対華二十一条要求において、ドイツが山東省に持っていた全権益を日本が継承することを認めさせた。大戦後のパリ講和会議(1919年)でもこの継承が承認されたが、これに猛反発した中国の民衆や学生によって五四運動と呼ばれる激しい排日・反帝国主義運動が巻き起こった。
この租借地をめぐる日中間の対立は「山東問題」として国際的な懸案事項となった。大戦後の国際協調ムードのなか、アメリカの仲介もあり、1921年から22年にかけて開催されたワシントン会議において解決が図られた。その結果、山東懸案解決条約が結ばれ、日本は青島を含む山東省の租借権および鉄道利権を中国へ返還することとなった。