自由党(明治時代)
【概説】
1881年(明治14年)、板垣退助を総理(党首)として結成された日本初の本格的な政党。フランス流の急進的な天賦人権論や主権在民を唱え、全国の豪農や士族を中心とする自由民権運動の中核を担った。政府の弾圧や過激化事件の頻発により1884年に一旦解党したが、近代日本における政党政治の基礎を築いた。
結党の背景と「明治十四年の政変」
1874年(明治7年)の民撰議院設立建白書の提出以来、全国各地で高まりを見せていた自由民権運動は、国会開設を求める一大国民運動へと発展していた。そうした中、1881年に開拓使官有物払下げ事件が発覚し、薩長藩閥政府に対する世論の批判が沸騰した。
これに対し、政府は払下げを中止するとともに、政府内で対立していた大隈重信を罷免し、同時に「国会開設の勅諭」を発して10年後(1890年)の国会開設を約束した(明治十四年の政変)。この勅諭を受けて、国会開設に向けた政党結成の気運が一気に高まり、同年10月、国会期成同盟を母体として、板垣退助を総理(党首)、中島信行を副総理として結成されたのが自由党である。
フランス流の急進的思想と支持基盤
自由党は、ジャン=ジャック・ルソーの思想に強い影響を受けた中江兆民らによる、フランス流の「天賦人権論」や急進的な「主権在民」をイデオロギーの柱とした。彼らは基本的人権の尊重や一院制議会の設立などを党の綱領に盛り込み、藩閥専制政治を厳しく批判した。
支持基盤となったのは、政府に不満を持つ不平士族のほか、地租改正によって重い税負担に苦しみながらも地方の政治経済を担っていた豪農層、さらに都市部の知識人や青年層であった。特に、地方の豪農たちは民権運動の有力なスポンサーとなり、自由党の全国的な組織化に大きく貢献した。翌1882年に大隈重信らが結成した、イギリス流の漸進的な議会政治をモデルとする立憲改進党(都市部の資本家や知識人が中心)とは、思想的にも支持基盤的にも対照的であり、両党は時に激しく対立することとなる。
松方デフレと激化事件の頻発
自由党が結成された直後の1881年後半から、大蔵卿・松方正義による極端な緊縮財政政策(松方デフレ)が断行された。これにより深刻な農村不況が引き起こされ、農産物価格の暴落によって多くの農民や中小地主が没落し、自由党の強力な支持基盤であった豪農層も大打撃を受けた。
貧窮した農民たちの不満は爆発寸前となり、彼らを支持基盤とする地方の自由党員(急進派)の活動は次第に過激化していった。政府による集会条例などの厳しい弾圧も相まって、合法的な言論運動に限界を感じた一部の党員は武装蜂起に走った。1882年の福島事件をはじめ、1884年の群馬事件、加波山事件、さらには党解散の直後に起こる秩父事件など、自由党急進派や農民による実力行使(激化事件)が相次いで発生した。
自由党の解党と歴史的意義
政府による徹底した弾圧と、党内における指導部(板垣退助ら)と地方急進派との対立が深まる中、自由党の組織的統制は限界に達した。激化事件への連座によって党そのものが政府から弾圧されることを恐れた板垣退助ら党指導部は、加波山事件直後の1884年(明治17年)10月に自由党の解党を決議した。
日本初の本格的な政党として一時代を築いた自由党の歴史は、わずか3年で一旦幕を閉じることとなった。しかし、その急進的な民権思想と全国に張り巡らされた人的ネットワークが完全に消滅したわけではなかった。彼らの系譜は、のちの大同団結運動を経て、1890年の第1回帝国議会開設に伴い立憲自由党として再結成される。自由党は、近代日本の政党政治の源流として、その後の帝国議会において極めて重要な役割を果たし続けることとなるのである。