舎人親王

高校日本史的重要度
★★★

【参考リンク】
舎人親王(Wikipedia)

舎人親王 (とねりしんのう)

676年〜735年

【概説】
飛鳥時代後期から奈良時代にかけて活躍した皇族で、天武天皇の皇子。六国史の第一にあたる『日本書紀』の編纂事業を総裁し、養老4年(720年)に完成させた人物として知られる。藤原不比等の死後は皇親政治の重鎮として政界を牽引し、聖武天皇の治世を支えた。

天武天皇の皇子としての出自

舎人親王は、天武天皇5年(676年)に生まれた。母は天智天皇の皇女である新田部皇女(にいたべのひめみこ)であり、両親ともに天皇の血を引く非常に身位の高い皇族であった。草壁皇子や高市皇子といった有力な異母兄たちがいたため、若い頃は目立った政治的活動は見られないが、天武・持統・文武・元明の各時代を通じて順調に昇進を重ねた。同母兄に新田部親王(にいたべしんのう)がおり、彼ら兄弟はのちの奈良時代において皇親勢力(皇族を中心とする政治勢力)の中核を担うこととなる。

『日本書紀』編纂事業の総裁

舎人親王の歴史的功績として最も高く評価されるのが、国家修史事業の完成である。天武天皇の治世に発案された歴史書編纂事業は、天皇の死後も長きにわたり続けられていた。舎人親王はこの事業の総裁(責任者)に任じられ、多数の官人や学者を率いて資料の整理と編纂を主導した。

そして養老4年(720年)、神代から持統天皇の時代までを漢文の編年体で記した全30巻の日本書紀を完成させ、元正天皇に奏上した。これにより、日本の国家形成の歩みや天皇支配の正統性を国内外に主張する公式な国史(正史)が成立した。これは、先行して完成していた『古事記』(712年)とともに、律令国家のイデオロギー的な基盤を固める画期的な出来事であった。

皇親政治の重鎮と長屋王の変

日本書紀』完成と同年の720年、律令国家の最高実力者であった右大臣藤原不比等が没すると、政治の実権は皇親勢力へと移った。舎人親王は、いとこにあたる長屋王(高市皇子の子)や新田部親王らとともに政権の重鎮となり、神亀元年(724年)に聖武天皇が即位すると、太政官の事実上の最高位である太政官事(ちだいじょうかんじ)に就任して天皇を補佐した。

しかし、神亀6年(729年)に藤原四兄弟(不比等の子)の策謀とされる長屋王の変が勃発する。この際、舎人親王は新田部親王らとともに長屋王邸に派遣され、彼を糾問する使者の役割を果たしている。長屋王の自尽によって皇親勢力は大きな打撃を受けたものの、舎人親王自身は連座を免れ、その後も一品(いっぽん)という皇族の最高位に叙せられるなど、天平7年(735年)に没するまで政界の長老として君臨し続けた。

死後の追尊と歴史的意義

舎人親王の死後、藤原仲麻呂の台頭などにより政界は激動の時代を迎える。天平宝字2年(758年)、舎人親王の第7王子である大炊王(おおいおう)が仲麻呂の推挙により即位して淳仁天皇となると、父である舎人親王には天皇に準ずる「崇道尽敬皇帝(すどうじんきょうこうてい)」の尊号が贈られた。

のちに淳仁天皇恵美押勝の乱藤原仲麻呂の乱)で敗れて廃位されたため、舎人親王の血統が長く天皇位を継承することはなかった。しかし、彼が総裁として完成させた『日本書紀』は、その後平安時代まで続く「六国史」の第一として尊重され、日本の歴史学や国家意識の形成に計り知れない影響を与え続けている。

最終更新:
2026年6月24日 @ 17:12

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