長屋王の変 (ながやおうのへん)
【概説】
729年(神亀6年)、左大臣であった長屋王が藤原四兄弟らの陰謀により、国家転覆の謀反の疑いをかけられて自害に追い込まれた政変。藤原不比等亡きあとに政権を主導していた皇親勢力が排除されたことで、藤原氏が天皇の外戚として台頭し、その後の奈良時代の政治構造を決定づける重要な契機となった。
皇親政治を担った長屋王の台頭
長屋王は、天武天皇の長男である高市皇子を父に持つ有力な皇族であった。720年(養老4年)に律令政治を牽引していた右大臣の藤原不比等が没すると、長屋王は皇族代表として右大臣(のち左大臣)に就任し、元正天皇から聖武天皇への交代期において政権のトップに立った。彼は不比等が推進した律令制の基本路線を継承しつつ、当時の社会問題であった農民の逃亡や口分田の不足に対処するため、百万町歩の開墾計画や三世一身法(723年)を施行するなど、律令国家の立て直しに尽力した。この時代は、皇族が政治の主導権を握る「皇親政治」の最後の頂点であったともいえる。
立后問題を巡る藤原四兄弟との対立
一方で、藤原不比等の息子たちである藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)は、父の築いた政治的地位を継承し、藤原氏の権力をさらに拡大しようと画策していた。当時の天皇である聖武天皇は、母が不比等の娘である藤原宮子、そして妃も同じく不比等の娘である光明子であり、藤原氏との血縁的な結びつきが極めて強かった。
藤原四兄弟は、妹の光明子を皇后の地位(立后)に就けることで、確固たる外戚の地位を築くことを目指した。しかし、当時の律令の規定や慣例では、皇后は皇族出身者に限るとされており、非皇族である光明子の立后は前代未聞の特例であった。律令の原則を重んじる長屋王はこれに強く反対したとみられ、さらに聖武天皇と光明子の間に生まれた待望の皇子(基王)がわずか1歳で早世したことで、後継者を巡る焦りも加わり、両者の対立は決定的なものとなった。
事件の勃発と長屋王の最期
729年(神亀6年)2月、漆部君足(ぬりべのきみたり)と中臣宮処東人(なかとみのみやこのあずまひと)が、「長屋王が密かに左道(呪術)を用いて国家を傾けようとしている」と密告を行った。これを受けた聖武天皇は直ちに藤原宇合らに命じて、六衛府の兵で平城京内の長屋王の邸宅を完全に包囲させた。
舎人親王らによる糾問の末、長屋王は弁明の機会も与えられないまま、正妃の吉備内親王およびその所生の子らとともに自害を余儀なくされた。吉備内親王は元明天皇の娘であり、彼女との間に生まれた子供たちは天皇位の継承権を持つ有力な皇位継承候補者でもあった。彼らが一網打尽にされたことは、単なる長屋王個人の排除にとどまらず、藤原氏の権力集中を阻害しうる有力な皇族の血統そのものを断つという、四兄弟の冷酷な政治的意図が働いていたと解釈されている。
光明立后と初期律令国家への影響
事件から半年後の同年8月、事件の最大の目的であった光明子の立后が実現し、非皇族として初の皇后(光明皇后)が誕生した。これにより藤原四兄弟は天皇を支える最強の外戚として政界を完全に掌握し、いわゆる「藤原四子政権」が本格的に成立した。
しかし、無実の罪で葬られた長屋王の怨霊に対する恐怖は、その後の社会に長く影を落とすこととなる。数年後に天然痘の大流行によって藤原四兄弟が相次いで病死すると、人々はこれを長屋王の祟りであると噂した。また、長屋王の変を発端とする政治闘争の激化や謀反への疑心暗鬼は、聖武天皇の精神的な動揺を招き、のちの恭仁京や紫香楽宮への度重なる彷徨(遷都)の一因になったとも指摘されている。なお、1980年代の平城京発掘調査で発見された「長屋王邸跡」からは約4万点に及ぶ木簡が出土しており、変で滅ぼされる直前の長屋王の強大な権威と、豊かな邸宅生活の実態が現代に明らかになっている。