新進党
【概説】
1994年12月に結成された、平成期の一大野党。自由民主党の一党優位に対抗し、「政権交代可能な二大政党制」の確立を目指して、非自民の野党各党が合同して誕生した。一時は自民党を脅かす規模を誇ったが、党内の主導権争いや路線対立により、わずか3年で解党・分裂に至った。
55年体制の崩壊と「二大政党制」への模索
1993年、細川護熙非自民連立内閣の誕生によって、1955年以来続いていた自民党一党優位の55年体制が崩壊した。翌1994年には、衆議院選挙への小選挙区比例代表並立制の導入を柱とする選挙制度改革法案が成立。新制度下においては、小政党が乱立すると自民党を利することになるため、野党第一党となる巨大な対抗軸の形成が急務となった。
このような背景から、同年12月、羽田孜内閣の退陣後に野党へ転落していた新生党、公明党(一部)、日本新党、民社党、および自民党を離党した海部俊樹グループ(高志会)などが大合同し、所属国会議員214名を擁する巨大野党「新進党」が結成された。初代党首には元首相の海部俊樹が就任し、実質的な党運営は幹事長の小沢一郎が主導した。
党内対立の激化と1996年総選挙の敗北
新進党は「改革」を掲げ、自民党・社会党・さきがけの「自社さ連立政権」(村山富市・橋本龍太郎内閣)に対抗した。1995年の第17回参議院議員通常選挙では、旧公明党の支持母体である創価学会の強力な集票力を背景に比例区で自民党を上回る議席を獲得し、政権交代への現実味を帯びさせた。同年末には、小沢一郎が第2代党首に就任し、より新自由主義的な市場改革路線と自主憲法制定などのタカ派的な政策を明確に打ち出した。
しかし、小沢の強権的な党運営や急速な改革路線に対し、旧民社党系や旧日本新党系のリベラル・穏健派議員、また創価学会との距離感を巡る内部対立が表面化。さらに自民党側からも、創価学会と新進党の関係を突く激しいネガティブ・キャンペーン(「政教分離」問題の追及)が展開され、党の結束は徐々に揺らいいでいった。
1996年10月、初の小選挙区制で行われた第41回衆議院議員総選挙において、新進党は政権奪還を目標とした。しかし、自民党の組織選挙を前に大敗は免れたものの過半数には遠く及ばず、156議席の獲得にとどまり事実上敗北した。
急速な離党ドミノと解党の歴史的意義
総選挙での敗北以降、党内の遠心力は一気に加速した。小沢党首の指導力に対する不満や危機感から、細川護熙や羽田孜といった首相経験者ら実力者が相次いで離党。自民党による個別的な切り崩し工作(自民党への復党・移籍の誘い)も功を奏し、新進党は求心力を急速に失っていった。
1997年12月、次期参院選を控える中で小沢党首はもはや党の融和は不可能と判断し、突如として解党を宣言。新進党は、自由党、新党友愛、公明(地域政党)、新党平和、改革クラブなど、わずか3年で6つの政党に分裂・雲散霧消した。
新進党の興亡は、多様な背景を持つ野党が理念や政策の十分な一致なしに「選挙互助会」的に野合することの限界を示すこととなった。しかし、新進党の解体と挫折を経て、旧新進党の非自民・改革派勢力は、のちの民主党(1998年結成の「大民主党」)へと合流していく。新進党の誕生から解党にいたる試行錯誤は、2009年の政権交代へと至る「二大政党制の模索」という日本政治史の流れにおける重要な過渡期であったと言える。