藤原麻呂 (ふじわらのまろ)
【概説】
奈良時代の公卿で、藤原不比等の四男であり、藤原四家の一つである京家(きょうけ)の祖。兄である武智麻呂、房前、宇合とともに「藤原四兄弟」の一人として聖武天皇期の政権を主導したが、天平9年に流行した天然痘により急死した。
藤原四兄弟の末弟と「京家」の創始
藤原麻呂は、大宝律令の制定などで大極を握った藤原不比等の四男として生まれた。母は天武天皇の夫人でもあった五百重娘(新田部親王の母)である。麻呂が興した家系は、彼が左京大夫に任じられて京職の長官を務めたことから「京家」と称される。武智麻呂の「南家」、房前の「北家」、宇合の「式家」と並び、後世の藤原氏の分派の一角を形成した。神亀6年(729年)の長屋王の変によって皇親勢力の排除に成功すると、麻呂は参議に任じられて公卿の列に加わり、四兄弟が主導する「四子政権」を確立して藤原氏の権力基盤を揺るぎないものとした。
東北遠征と万葉歌人としての文化的一面
麻呂は政治家としてだけでなく、軍事や文化の面でも足跡を残している。天平9年(737年)初頭、麻呂は持節大使(持節大将軍)に任じられ、陸奥国から出羽国への連絡路(現在の奥羽山脈を越えるルート)を開削する遠征を指揮した。この事業は、蝦夷に対する備えと東北地方の律令支配を安定させる上で極めて重要な軍事作戦であった。一方で、麻呂は風流を愛する教養人でもあり、『万葉集』には大伴坂上郎女との間で交わされた情熱的な贈答歌などが収録されており、当時の洗練された宮廷文化を体現する人物であったことが窺える。
天然痘の流行と四子政権の終焉
東北遠征を成功させて帰京した麻呂であったが、その直後に平城京を襲った天然痘(疫瘡)の大流行に巻き込まれることとなる。天平9年(737年)の夏から秋にかけて、藤原四兄弟は次々とこの疫病に斃れ、麻呂も同年7月に43歳で病死した。四兄弟全員が短期間に急死したことで、藤原氏主導の政権は一時的に崩壊し、政権の主導権は皇族出身の橘諸兄や、遣唐使帰りの玄昉・吉備真備らの手に移ることとなった。また、その後の京家は、麻呂の子である藤原浜成が「氷上川継の乱」に連座して失脚したことなどから、他の三家に比べて政界の主流から外れて衰退していくこととなった。