第三世界
【概説】
第二次世界大戦後の冷戦期において、アメリカを筆頭とする資本主義(西側)陣営にも、ソ連を筆頭とする社会主義(東側)陣営にも属さなかったアジア・アフリカ・ラテンアメリカの新興諸国の総称。植民地支配からの独立と独自の政治的・経済的自立を目指し、国際政治における「第三の極」を形成した。
冷戦の二極化に抗う「第三の極」の形成
第二次世界大戦後、米ソを中心とする東西対立が激化するなか、植民地支配から相次いで独立を果たしたアジア・アフリカの国々は、いずれの陣営にも組み込まれない独自の道を模索した。フランスの人口学者アルフレッド・ソーヴィがフランス革命時の「第三身分(平民)」になぞらえて提唱した「第三世界」という言葉は、こうした新興勢力を指す概念として定着した。
第三世界の結集を示す象徴的な出来事が、1955年にインドネシアのバンドンで開催されたアジア・アフリカ会議(バンドン会議)である。ここでは「平和十原則」が採択され、反植民地主義や非同盟・中立の姿勢が明確に打ち出された。その後、1961年には「非同盟諸国首脳会議」へと発展し、国連などの国際舞台において、米ソ二大超大国を牽制するキャスティングボートを握る存在となった。
昭和の日本外交と「第三世界」との距離感
サンフランシスコ平和条約の締結と日米安全保障条約の調印(1951年)を経て、西側陣営の一員として国際社会に復帰した昭和の日本にとって、第三世界との関係は極めて複雑なものであった。日本は1955年のアジア・アフリカ会議に高碕達之助(経済審議庁長官)を首席代表として派遣し、アジアの一員としての国際社会への復帰をアピールした。しかし、アメリカとの同盟関係を外交の基軸とする日本は、第三世界が掲げる急進的な反帝国主義・反米の政治路線とは一線を画さざるを得なかった。
一方で、日本は東南アジア諸国に対する戦後賠償の実施や、政府開発援助(ODA)を通じた開発資金の提供、技術協力を進めていった。これは、高度経済成長を遂げる日本にとって、資源供給地および製品輸出市場としての第三世界(特にアジア)との結びつきを強化する実利的な意味合いが強かった。結果として日本は、「西側先進国」でありながらも「アジア太平洋地域の一員」として、第三世界との経済的な共生関係を深めていく独自の外交を展開することとなった。