藤原宇合

藤原四兄弟の三男で、大宰帥として九州に出向くなど活躍したが、737年に兄弟とともに天然痘で病死した人物は誰か?
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重要度
★★

【参考リンク】
藤原宇合(Wikipedia)

藤原宇合 (ふじわらのうまかい)

694年〜737年

【概説】
奈良時代前中期の公卿であり、藤原不比等の三男として「藤原式家」の祖となった人物。遣唐副使としての入唐経験や、蝦夷征伐での軍事的功績など、文武両面にわたる非凡な才能を発揮して政権の中枢で活躍した。長屋王の変を経て兄弟とともに藤原四子政権を確立したが、最期は当時大流行した天然痘(天平の疫病大流行)により急逝した。

遣唐使の経験と文武における事績

藤原宇合は、藤原氏の繁栄の基礎を築いた藤原不比等の三男として生まれた。彼のキャリアにおいて極めて重要な契機となったのが、717年(養老元年)の遣唐使への参加である。宇合は遣唐副使に任命されて入唐し、当時の先進国であった唐の制度や文化を直接吸収した。この遣唐使には、阿倍仲麻呂や吉備真備、僧の玄昉らも同行しており、彼らとの交流や唐での経験は宇合の教養を深く形作った。帰国後はその文才を活かし、現存する日本最古の漢詩集である『懐風藻』や、万葉集にも多くの作品を残している。また、地方官としての実績も重ね、『常陸国風土記』の編纂にも深く関わったとされている。

一方で、宇合は軍事的な才能にも優れていた。724年(神亀元年)に東北地方の蝦夷が反乱を起こした際には、持節大将軍に任じられて征討に赴き、見事にこれを鎮圧した。この遠征の過程で多賀城の整備が進められるなど、陸奥国の開拓と安定に大きく貢献した。このように、朝廷において外交・文化・軍事のすべてに通じた稀有な人材として地歩を固めていった。

長屋王の変と「藤原四子政権」の確立

不比等の死後、朝廷の実権は天武天皇の孫である皇親勢力の代表、長屋王に握られていた。これに対し、宇合をはじめとする藤原武智麻呂、房前、麻呂の四兄弟(藤原四子)は、藤原氏の権力を奪還すべく長屋王と対立した。729年(神亀6年)、密告を端緒として長屋王に謀反の疑いがかけられた長屋王の変が勃発すると、宇合は兵を率いて長屋王の邸宅を包囲し、自害へと追い込む直接的な役割を果たした。

長屋王の排除に成功した四兄弟は、妹の光明子を聖武天皇の皇后(光明皇后)に立てることに成功し、人臣として初の立后という快挙を成し遂げた。これにより、宇合は参議や式部卿、さらには大宰帥といった要職を歴任し、四兄弟による集団指導体制(藤原四子政権)の一翼を担って国政を主導する立場となった。宇合が式部卿を長く務めたことから、彼の家系は後に「藤原式家」と呼ばれるようになり、平安時代初期にかけて政界に強い影響力を持つこととなる。

天然痘の流行による急逝とその後の影響

政治的絶頂期を迎えていた藤原四子政権であったが、その終焉は突然訪れた。735年(天平7年)頃から九州地方で発生した天然痘(天平の疫病大流行)は、たちまち全国へと広がり、平城京をも襲った。この猛威は朝廷の高官らにも容赦なく襲いかかり、737年(天平9年)、宇合は兄弟たちとともに相次いで病死した。四兄弟全員がほぼ同時期に死去したことで、藤原氏の政権は一瞬にして崩壊することとなった。

宇合の死後、政権は藤原氏の手から離れ、皇族出身の橘諸兄へと移行した。この政権交代に対する不満から、宇合の長男である藤原広嗣は、740年(天平12年)に玄昉や吉備真備の除名運動を掲げて九州で挙兵したが、敗死した(藤原広嗣の乱)。しかし、式家の血統は途絶えることなく、後に宇合の百川らが光仁天皇や桓武天皇の擁立に尽力したことで、式家は再び中央政界で主導権を握るなど、宇合が遺した血統は奈良時代後期から平安時代初期の歴史に大きな爪痕を残した。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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