藤原房前

藤原四兄弟の次男で、長屋王の変に関与し権力を握ったが、兄弟とともに天然痘で倒れた人物は誰か(のちに彼の子孫が摂関家となる)?
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重要度
★★

藤原房前 (ふじわらのふささき)

681年〜737年

【概説】
奈良時代前期の公卿であり、藤原不比等の次男。のちに摂関家として平安貴族の主流となる藤原北家の祖。元正・聖武両天皇の側近として活躍し、長屋王の変を経て藤原四子政権の一翼を担ったが、天然痘の大流行により病死した。

不比等の次男と「藤原北家」の創始

藤原房前は、大宝律令の制定や平城京遷都を主導して藤原氏繁栄の礎を築いた藤原不比等の次男として生まれた。不比等の四人の息子(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)はのちに「藤原四兄弟」と称され、それぞれ南家・北家・式家・京家の四家を興すこととなる。房前の邸宅が兄・武智麻呂の「南家」に対して北側に位置していたことから、彼の系統は藤原北家と呼ばれるようになった。この北家からは、のちに平安時代中期に摂政・関白を独占して栄華を極める藤原道長や頼通らが輩出される。房前自身は当時にあって四兄弟の中で最も早く出世を遂げ、のちの北家繁栄の血統的・政治的な土台を築いた人物として位置づけられる。

長屋王との協調から「長屋王の変」へ

養老4年(720年)に父・不比等がついえると、政権の主導権は天武天皇の孫である右大臣(のち左大臣)の長屋王へと移った。この際、房前は元正天皇の強い信任を得て、臨時の令外官である内臣(うちつおみ)に任じられ、若くして長屋王とともに政権中枢に参画することとなった。当初は長屋王との協調路線をとっていた藤原氏であったが、聖武天皇の即位後、不比等の娘である光明子を皇后に立てる(立后)計画を進めるにあたり、皇族本位の政治を重視する長屋王との対立が顕在化した。神亀6年(729年)、房前ら四兄弟は密告を利用して長屋王に謀反の疑いをかけ、軍兵で邸宅を包囲して自害に追い込んだ(長屋王の変)。これにより、皇族を中心とする政治勢力は打撃を受け、藤原氏が主導する政治体制が確立された。

藤原四子政権の確立と天然痘による急死

長屋王の排除後、房前は光明子の立后(光明皇后)を実現させ、四兄弟による集団指導体制(藤原四子政権)を強固なものとした。房前は参議・民部卿などの要職を歴任し、政策決定において中心的な役割を果たしたが、その政権は長くは続かなかった。天平9年(737年)、遣新羅使の帰国などをきっかけに、平城京で猛烈な天然痘(疫病)の大流行が発生した。この疫病は身分を問わず猛威を振るい、房前は同年4月に四兄弟の中で最も早く病死した。その後、数ヶ月のうちに武智麻呂、宇合、麻呂も次々と病没し、藤原四子政権は事実上壊滅した。房前らの死後、政権の主導権は藤原氏の手を離れ、皇族出身の橘諸兄へと移行することとなり、奈良時代の政局は混迷の度を深めていく。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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