国際連盟脱退

1933年3月、満州国建国を否認する勧告案が国際連盟で可決されたことを不服とし、日本政府がとった対抗措置は何か?
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【参考リンク】
国際連盟(Wikipedia)

国際連盟脱退

1933年

【概説】
日本の満州国建国を否認する勧告案が国際連盟総会で可決されたことに反発し、1933年に日本政府が連盟からの脱退を通告した措置。ヴェルサイユ・ワシントン体制からの離脱を意味し、日本が国際的な孤立を深めていく決定的な転換点となった。

満州事変の勃発とリットン調査団の派遣

1931(昭和6)年に勃発した満州事変に対し、中華民国は国際連盟に提訴を行った。連盟は日本軍の撤退決議を採択したが、関東軍は軍事行動を拡大し、1932(昭和7)年3月には清朝最後の皇帝・溥儀を執政に据えて満州国の建国を宣言した。この事態を受け、国際連盟はイギリスのリットン卿を団長とするリットン調査団を現地へ派遣し、事態の調査にあたらせた。

リットン報告書と日本の強硬姿勢

1932年10月に提出されたリットン報告書は、満州における日本の特殊権益には一定の理解を示しつつも、関東軍の軍事行動を自衛権の行使とは認めず、満州国建国も現地住民の自発的な意思によるものではないと断定した。その上で、中国の主権下において満州に国際管理の自治政府を樹立するという妥協案を提示した。しかし、当時の斎藤実内閣は報告書公表の直前に日満議定書に調印して満州国を正式に承認しており、連盟の調停を受け入れる余地を自ら閉ざす強硬な姿勢をとっていた。

勧告案の可決と松岡洋右全権の退場

1933(昭和8)年2月の国際連盟特別総会において、リットン報告書に基づく「中日紛争に関する勧告案」が採決に付された。これは満州国の不承認と日本軍の満鉄付属地への撤退を求めるものであり、採決の結果、賛成42、反対1(日本)、棄権1(シャム=現在のタイ)の圧倒的多数で可決された。これに対し、日本の全権代表であった松岡洋右は勧告の受諾を拒否する宣言を読み上げ、全権団を引き連れて議場から退場した。この退場劇は、国内のメディアで「堂々たる退場」として英雄視され、対外硬派の世論を大いに煽ることとなった。

国際連盟脱退の歴史的意義と影響

総会での可決を受け、同年3月27日、日本政府は正式に国際連盟脱退を通告した(規定により発効は2年後)。国際連盟創設時からの常任理事国であった日本の脱退は、第一次世界大戦後の国際協調の枠組みであるヴェルサイユ・ワシントン体制の崩壊を象徴する出来事であった。

日本の脱退から約半年後の1933年10月には、ナチス政権下のドイツも軍縮会議および国際連盟から脱退し、平和維持機構としての連盟の無力化が次第に露呈していった。国際社会から孤立した日本は、以後軍部の政治的発言力をさらに強め、日独伊三国同盟への接近や日中戦争、そして太平洋戦争へと至る破局への道を突き進んでいくことになる。国際連盟脱退は、近代日本の歩みにおいて最も重大かつ致命的な外交的転換点の一つであった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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