塘沽停戦協定 (たんくていせんきょうてい)
【概説】
1933年5月31日、大日本帝国陸軍(関東軍)と中華民国国民政府軍との間で結ばれた、満州事変を事実上終結させた停戦協定。万里の長城以南に広大な非武装地帯を設定したことで、満州国の存立が事実上黙認される結果となった。
満州事変の拡大と中国側の「安内攘外」方針
1931年9月の柳条湖事件に始まった満州事変は、関東軍による急速な軍事展開を経て、1932年3月の「満州国」建国へと至った。国際社会がリットン調査団の報告書に基づき日本の侵略行為を非難すると、日本は1933年3月に国際連盟からの脱退を表明。同時期に関東軍は熱河省(満州国の西端)へ進出し、さらに万里の長城を越えて中国本土(河北省)へと侵攻を続けた。
これに対し、蒋介石率いる国民政府は、国内の共産党勢力の討伐を最優先し、外敵(日本)への抵抗を後回しにする「安内攘外(あんないじょうがい)」の基本方針をとっていた。共産党との内戦を抱えるなかで日本との全面戦争を回避したい国民政府は、北京や天津への日本軍の侵入を防ぐため、軍事的な妥協を選択せざるを得なくなった。こうして天津の港町である塘沽(たんく)において、両軍代表による停戦交渉が行われた。
「非武装地帯」の設置と満州国の既成事実化
合意された協定の内容は、万里の長城の南側に広大な非武装地帯(冀東地区)を設定することであった。中国軍はこの地域からの撤退を義務づけられ、同地域の治安維持は中国側の警察隊(保安隊)が担うとされたが、日本側による航空機などを用いた偵察や監視活動が認められた。これにより、北京・天津の目と鼻の先までが日本の軍事的な影響下に置かれることとなった。
この協定はあくまで前線の軍事司令官同士が結んだ「軍事停戦協定」であり、満州国の承認や領土問題といった政治的な合意は含まれていなかった。しかし、万里の長城を日中両勢力の「事実上の境界線」としたことで、国民政府が長城以北の地域(満州国)に対する主権行使を断念し、満州国の存在を黙認せざるを得ない状況が作り出された。
華北分離工作から日中戦争への道標
塘沽停戦協定は満州事変における一連の戦闘を終結させたが、これは一時的な局地的和平に過ぎなかった。日本側はこの協定によって得た非武装地帯を足がかりに、河北・チャハル・山東・山西・綏遠の華北5省を中国政府の統治から切り離し、日本の支配下に置こうとする華北分離工作を本格化させていく。
日本は非武装地帯に親日傀儡政権である「冀東防共自治政府」を樹立させるなどして中国への侵略を強め、これが中国国民の強い抗日世論を呼び起こすこととなった。結果として、この妥協の産物であった協定は根本的な解決をもたらさず、1937年の盧溝橋事件から始まる本格的な日中戦争(日華事変)へとつながる直接的な伏線となったのである。