ワシントン海軍軍縮条約の廃棄
【概説】
1934年12月、日本政府がアメリカ合衆国に対してワシントン海軍軍縮条約の破棄を通告した事件。これにより大正期から続いていた国際協調的な安全保障体制(ワシントン体制)は崩壊へと向かった。日本が軍事的な自立と軍備拡張の道を選択し、太平洋戦争へと至る日米対立を決定づける契機となった。
条約廃棄の背景と海軍内の対立
1922年に締結されたワシントン海軍軍縮条約は、主力艦の保有比率を米・英・日=5:5:3と定めていた。日本海軍はこの制限に不満を抱きつつも、当時は協調外交(幣原外交)の流れの中でこれを容認していた。しかし、海軍内部では条約を支持する「条約派」と、対米7割の兵力を主張して条約に反対する「艦隊派」との対立が深く存在していた。
この対立は、1930年のロンドン海軍軍縮条約の締結をめぐる統帥権干犯問題で爆発する。さらに1931年の満州事変、1933年の国際連盟脱退を経て、日本の国際的孤立とナショナリズムが高まると、海軍内では艦隊派が主導権を握るようになった。彼らは対米英比率の不平等を打破し、軍事的主権を回復することを強く要求した。
廃棄通告の閣議決定と「無条約時代」への突入
1934年、岡田啓介内閣は海軍側の強い不満と圧力を受けて、ワシントン海軍軍縮条約の廃棄方針を固めた。同年9月に閣議決定を行い、12月にアメリカ政府へ正式に条約廃棄を通告した。同条約の規定により、通告から2年後の1936年12月に条約は失効することとなった。
日本は1935年から始まった第2次ロンドン海軍軍縮会議において、保有量の「共通制限限度(各国一律の保有枠)」を提案したが、米英に拒絶されたため1936年1月に同会議を脱退した。これにより、ワシントン・ロンドン両条約による軍縮体制は完全に崩壊し、日本は軍備制限のない「無条約時代」へと突入した。
歴史的意義と日米対立の本格化
条約廃棄後、日本海軍は念願であった巨大戦艦「大和」や「武蔵」の建造など、独自の最新鋭艦艇の開発・建造(③①計画などの軍備拡張計画)を極秘裏に開始した。しかし、これは同時にアメリカやイギリスとの果てしない軍拡競争を招く結果となった。経済力で圧倒的に勝るアメリカは、1938年以降、ヴィンソン計画と呼ばれる大規模な海軍拡張法案を次々と成立させ、日米の海軍力の格差は縮まるどころか、むしろ拡大していくこととなった。
ワシントン海軍軍縮条約の廃棄は、日本が第1次世界大戦後の国際協調から完全に離脱し、自らの安全保障を自らの軍事力のみによって維持しようとする「自主国防」への傾斜を象徴する出来事であった。これはのちの南進論の具体化や、太平洋戦争(大東亜戦争)における日米直接衝突の伏線となった点で極めて重要な歴史的転換点である。