松岡洋右

1933年、国際連盟総会でリットン報告書に基づく勧告案が可決された際、抗議して議場を退場した日本の首席全権は誰か?
カテゴリ:
重要度
★★★

松岡洋右 (まつおかようすけ)

1880年 – 1946年

【概説】
昭和戦前期の外交官、政治家。1933年の国際連盟総会で日本の首席全権としてリットン報告書の採択に抗議し、議場を退場して連盟脱退の引き金を作った。のちに第2次近衛文麿内閣の外務大臣として日独伊三国軍事同盟や日ソ中立条約の締結を主導し、日本の対外強硬路線を決定づけた。

渡米経験と外交官としての台頭

松岡洋右は1880年、山口県の廻船問屋に生まれた。11歳で親族を頼って単身渡米し、苦学しながらオレゴン大学法学部を卒業した。この長きにわたるアメリカ生活を通じて、松岡はネイティブ並みの堪能な英語力と、西洋式の自己主張の強いディベート能力を身につけた。帰国後、外交官及領事官試験に首席で合格して外務省に入省し、中国やロシアなどの在外公館で勤務した。

のちに外務省を退官し、南満洲鉄道(満鉄)の理事に就任したほか、立憲政友会から衆議院議員選挙に出馬して政治家へと転身した。満鉄時代には満洲の経済開発や権益拡大に尽力し、これがのちの彼の「満洲」に対する強い執着へとつながっていく。

国際連盟からの退場と「国民的英雄」

松岡の名を歴史に深く刻んだのは、1932年に日本の首席全権として派遣された国際連盟総会での行動である。1931年に勃発した満洲事変をめぐり、国際連盟はリットン調査団を派遣していた。その報告書(リットン報告書)は、日本の満洲における権益は一定程度認めつつも、満洲国の建国は日本の自衛行動とは認めず、国際管理下に置くことを勧告する内容であった。

1933年2月の連盟総会において、松岡は流暢な英語で長時間の演説を行い、満洲国の正当性を強硬に主張した。しかし、勧告案は賛成42、反対1(日本)、棄権1の圧倒的多数で可決された。これを受けた松岡は「もはや日本政府は連盟と協力する余地を失った」と宣言し、全権団を率いて議場を退場した。翌月、日本政府は正式に国際連盟からの脱退を通告するに至った。

国際的孤立を深める決定的な出来事であったが、当時の日本のマスメディアや世論は、大国に堂々と意見を述べて席を蹴った松岡を「国民的英雄」として熱狂的に迎え入れた。この熱狂が、その後の日本のポピュリズムと対外強硬路線をさらに後押しすることになった。

三国同盟の推進とユーラシア枢軸構想

連盟脱退後、衆議院議員を辞職して満鉄総裁などを務めたのち、1940年に第2次近衛文麿内閣の外務大臣に就任した。当時、ヨーロッパでは第二次世界大戦が勃発し、ナチス・ドイツが快進撃を続けていた。松岡はドイツ・イタリアとの提携を深めることでアメリカを牽制し、東南アジアへの進出(南進)を容易にしようと考え、同年9月に日独伊三国軍事同盟を締結した。

さらに松岡は、これにソ連を加えた「四国協商構想(ユーラシア枢軸構想)」を描いていた。1941年4月に自らモスクワへ赴き、スターリンと会談して日ソ中立条約を電撃的に締結する。松岡の構想は、ユーラシア大陸の巨大な同盟網によってアメリカに圧力をかけ、日本に有利な条件で戦争を回避しつつ権益を確定させるという壮大な地政学的戦略であった。

日米交渉の決裂と失脚、そして東京裁判

しかし、松岡の構想は1941年6月の独ソ戦の勃発によってもろくも崩れ去った。ドイツとソ連が戦争状態に入ったことで、四国協商構想は根本から破綻したのである。それにもかかわらず、松岡は日ソ中立条約を破棄してソ連を背後から攻撃する(北進)ことを強硬に主張し、政府内での孤立を深めた。

並行して進められていた日米交渉においても、三国同盟に固執する松岡はアメリカに対して非妥協的な態度を取り続け、交渉進展の最大の障害となっていた。事態の打開を図る近衛文麿首相は、松岡を外相から更迭するため、1941年7月に内閣を一度総辞職し、松岡を外した第3次近衛内閣を直ちに組織した。これにより松岡は政治の表舞台から完全に姿を消した。

太平洋戦争終結後の1946年、松岡はA級戦犯として極東国際軍事裁判(東京裁判)に起訴された。しかし、すでに結核を患っており、公判中の同年6月に病死したため、判決を受けることはなかった。彼の優れた語学力と野心的な外交構想は、結果として日本を国際的孤立と破滅的な戦争へと導く決定的な要因となったのである。

松岡洋右とその時代 (1981年)

戦前外交の裏舞台で翻弄された外交官の苦悩と波乱の生涯を克明に描き出し、歴史の重層的な意味を問い直す評伝。

[復刻版] 少年に語る

時代を牽引した指導者が次代を担う若者たちへ向けた、熱き情熱と生きるための指針を説く魂を揺さぶる訓話集。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

Q. 列強の中国分割において、宣教師殺害事件を口実にドイツが清国から租借した山東半島の湾はどこか?
Q. 東大寺大仏の鋳造に必要な銅を大量に産出した「長登銅山」がある国はどこか?
Q. わずか9歳で即位したため、外祖父の藤原良房が臣下として初めて摂政に就任することになった天皇は誰か。