膠州湾 (こうしゅうわん)
【概説】
中国の山東半島南岸に位置する湾。1898年にドイツが宣教師殺害事件を口実に清から99年間の期限で租借し、極東の拠点として要塞化した地域。第一次世界大戦期における日独の衝突や、その後の山東問題をめぐる外交交渉の舞台となったことで日本近代史において極めて重要な意味を持つ。
ドイツの租借と帝国主義列強による中国分割
19世紀末、東アジアへの進出を狙っていたドイツ帝国は、1897年に山東省で発生した曹州教案(ドイツ人宣教師殺害事件)を好機と捉えて膠州湾を軍事占領した。翌1898年には清国との間に条約を結び、膠州湾とその周辺一帯を99年間の期限で租借することに成功した。ドイツは湾奥に位置する青島(チンタオ)を近代的な軍港および商業港として整備し、極東における海軍基地(東洋艦隊の拠点)へと要塞化していった。
このドイツによる膠州湾租借は、東アジアにおける帝国主義列強の勢力圏争いを一気に加速させる引き金となった。これに刺激されたロシアが旅順・大連を、イギリスが威海衛・九龍半島を、フランスが広州湾をそれぞれ租借し、清国の主権を侵食する中国分割の嵐が吹き荒れることとなった。
第一次世界大戦と日本軍による占領
1914年、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発すると、日本(第2次大隈重信内閣)は日英同盟を口実として連合国側に立ち参戦を決定した。日本はドイツに対して膠州湾租借地を中国(中華民国)へ返還することを前提として無条件明け渡しを要求したが、ドイツ側がこれに無回答であったため、ドイツに宣戦を布告した。
陸海軍からなる日本軍は山東半島に上陸し、膠州湾の要塞に立てこもるドイツ軍を包囲・攻撃した(青島の戦い)。激しい戦闘の末、同年末までにドイツ軍を降伏させ、膠州湾租借地および山東鉄道などの山東省におけるドイツの権益地帯を完全に軍事占領下においた。
対華二十一カ条の要求から山東還付へ
膠州湾を占領した日本は、その支配を既成事実化するため、1915年に中華民国の袁世凱政権に対して対華二十一カ条の要求を突きつけた。この要求の第一号において、ドイツが持っていた膠州湾租借地や山東鉄道に関する一切の権利を日本が継承することを認めさせた。これにより、日本は山東省における利権を手中に収めることとなった。
しかし、第一次世界大戦後のパリ講和会議(1919年)において、中国側はこの条約の無効と山東主権の直接返還を求めて激しく抗議した。戦勝国となった列強(米・英・仏など)が日本の権益継承を認めたことで、中国国内では激しい反日ナショナリズムが爆発し、五四運動へと発展した。その後、アメリカの調停や国際協調主義の高まりを受け、1921年から開催されたワシントン会議において「山東懸案解決条約」が結ばれ、日本は1922年に膠州湾の主権および山東権益を中国へ返還すること(山東還付)に合意した。こうして膠州湾をめぐる日中の主権争いは、国際協調の枠組みの中で一応の解決を見ることとなった。