広州湾 (こうしゅうわん)
【概説】
1899年にフランスが清国から99年間の期限で租借した、中国南部(現在の広東省湛江市周辺)の湾岸地域。日清戦争後に加速した帝国主義列強による中国分割の一環。フランスはここを領有することで、自国の植民地である仏領インドシナから南中国(雲南・広西・広東)へと至る自勢力圏の拠点を確立した。
列強による中国分割と広州湾租借の背景
1894年から95年にかけての日清戦争において、大国と目されていた清が日本に敗北したことは、欧州列強に清の軍事的弱体化を印象づけることとなった。これ以降、列強による中国の領土・利権獲得競争(いわゆる中国分割)が急速に進行した。
まず1898年、ドイツが宣教師殺害事件を口実に膠州湾を租借すると、これに対抗してロシアが旅順・大連、イギリスが威海衛および九龍半島北部の新界を相次いで租借した。フランスもこれら競合国に対抗すべく、すでに植民地化していた仏領インドシナ(ベトナムなど)に隣接する中国南部の覇権を狙い、1898年に清へ要求を突きつけ、翌1899年に99年間の期限で広州湾を租借することに成功した。
フランスの南中国経営と東アジア情勢への影響
フランスは広州湾を軍港および自由港として整備し、中心地を当時の大統領名にちなんで「フォール・バヤール(白雅特城)」と命名した。租借地としての広州湾は、行政的には仏領インドシナ総督の管轄下に置かれ、フランスによる南中国(雲南省・広西省・広東省)への鉄道敷設や鉱山開発といった利権獲得の足がかりとして機能した。
こうした列強による排他的な勢力圏の画定は、中国の植民地化を極限まで押し進めるものであった。これに対し、中国への出遅れを挽回したいアメリカが「門戸開放宣言」(1899年)を発して機会均等を求める一方、中国国内ではキリスト教徒や外国人に対する民衆の不満が爆発し、1900年の義和団の乱を誘発する一因となった。日本においても、欧州列強によるアジア侵略の現実を目の当たりにすることで、さらなる軍備拡張と大陸への勢力拡大の必要性が叫ばれる契機となった。