相沢忠洋

重要度
★★★

相沢忠洋 (あいざわただひろ)

1926年〜1989年

【概説】
1946年に群馬県の岩宿遺跡で、関東ローム層中から打製石器を発見した在野の考古学研究者。この発見により、それまで否定されていた日本列島における旧石器時代の存在が学術的に証明され、日本の歴史認識を根本から覆すこととなった。

定説であった「土器以前の日本列島」

第二次世界大戦後のごく初期まで、日本の歴史は土器の使用を伴う縄文時代(新石器時代)から始まると考えられていた。当時、日本列島は火山活動が激しく、更新世(洪積世)に堆積した火山灰層である関東ローム層などの古い地層には人類の痕跡は存在しないというのが、考古学界や地質学界における揺るぎない定説であった。そのため、土器を伴わない石器が偶然出土したとしても、それが古い時代のものとは認められず、学術的な調査対象として真剣に取り上げられることはなかったのである。

岩宿遺跡における運命的な発見

相沢忠洋は、幼い頃から考古学に強い関心を抱いていたが、専門的な学術機関に属することはなく、戦後は納豆の行商などを営みながら独力で遺跡の踏査を続けていた。1946年(昭和21年)、群馬県新田郡笠懸村(現在の同県みどり市)の岩宿遺跡(いわじゅくいせき)の切通しを通りかかった相沢は、露出した関東ローム層の赤土の中に、明らかに人工的に加工された黒曜石の小さな破片を発見した。さらに1949年(昭和24年)、同地において完全な形をした槍先形尖頭器(打製石器)を掘り当てた。これは、当時の学界の常識では「絶対に人類が存在しない」とされていた地層からの石器の発見であった。

旧石器時代の存在証明と学界への衝撃

相沢の類まれな発見を知った明治大学の杉原荘介や芹沢長介らは、1949年の秋に岩宿遺跡の本格的な発掘調査を実施した。その結果、関東ローム層中から明瞭な打製石器の群が確認され、相沢の発見が事実であることが学術的に立証された。これにより、縄文時代よりも前の更新世の日本列島に、狩猟・採集を営む人類が居住していたことが確実となり、日本にも旧石器時代(先土器時代・無土器時代とも呼ばれる)が存在したことが初めて証明された。この岩宿遺跡の発見は、日本の歴史の始まりを数万年単位で遡らせるものであり、日本考古学史における最大級のパラダイムシフトを引き起こした。

在野の愛好家としての苦難と後年の栄誉

日本史を根本から書き換える歴史的偉業を成し遂げた相沢であったが、専門の研究者ではなく一介の在野の考古学愛好家であったため、当初は激しい偏見の目に晒された。岩宿遺跡の最初の発掘報告書においても相沢の貢献は十分に正当な評価を受けず、長らく不遇な時代を過ごすこととなる。しかし、相沢はその後も情熱を失うことなく地道な考古学研究を継続し、次第にその功績が社会的に広く認知されるようになった。1967年には吉川英治文化賞を受賞し、現在では日本における旧石器時代研究の扉を開いた偉大な先駆者として、歴史教科書に必ずその名が記載されるほどの確固たる評価を確立している。

石器時代の日本 (1960年)

日本列島における人類の歩みを先史時代の遺跡と出土品から紐解き、原始の暮らしを鮮明に描き出す黎明期の貴重な概説書。

岩宿遺跡の発見者—人間相澤忠洋を語る—

伝説的な岩宿遺跡の発見に至るまでの苦難と情熱、そして一人の人間の生き様を等身大の視点で綴った感動の伝記。

日本史一問一答(ランダム)

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A.
Q. 推古天皇の時代を中心に、聖徳太子や蘇我氏が推進し、中国の南北朝時代などの影響を受けて花開いた日本で最初の仏教文化を何というか?
Q. 岡山県倉敷市にあり、弥生時代後期における国内最大級の規模を誇る吉備地方の墳丘墓はどこか?