田中義一 (たなかぎいち)
【概説】
昭和時代初期に首相を務めた陸軍軍人、立憲政友会総裁。対外的には中国への干渉を強める積極外交を展開し、国内では三・一五事件のあとに治安維持法を改悪して最高刑に死刑を追加するなど、厳しい思想弾圧体制を築いた。
陸軍の実力者から政界への転身
田中義一は長州藩(現在の山口県)の出身で、山県有朋の系譜に連なる陸軍軍人である。日露戦争などで武功を挙げ、シベリア出兵の際には軍部の中枢として主導的な役割を果たした。原敬内閣および第2次山本権兵衛内閣で陸軍大臣を務め、陸軍大将にまで昇進したが、大正デモクラシー期における政党政治の伸張を背景に、1925年(大正14年)に軍を退役して立憲政友会の総裁に就任した。陸軍閥の重鎮が巨大政党のトップに立つという異例の転身であった。
昭和金融恐慌の収拾と内閣誕生
1927年(昭和2年)、第1次若槻礼次郎内閣(憲政会)が昭和金融恐慌への対応に行き詰まり総辞職すると、田中義一に大命が降下し、政友会内閣が発足した。田中は蔵相にベテランの高橋是清を起用し、3週間のモラトリアム(支払猶予令)を実施して日本銀行から莫大な特別融資を行わせることで、全国的な銀行の取り付け騒ぎを沈静化させ、金融恐慌を力技で収拾することに成功した。
協調から強硬へ:積極外交の展開
外交面において、田中内閣は前任の幣原喜重郎(憲政会内閣外相)による英米協調・中国内政不干渉の路線(幣原外交)を軟弱外交であると批判し、外相を兼任した田中自身が主導する強硬な積極外交(田中外交)へと転換した。
当時、中国では蔣介石率いる国民革命軍が軍閥を打倒して中国統一を目指す「北伐」を進めていた。田中内閣は日本の権益と日本人居留民の保護を名目に、1927年から1928年にかけて計3回にわたる山東出兵を強行し、済南事件などで国民革命軍と武力衝突を引き起こした。また、1927年には東方会議を開催し、満蒙(満州および内モンゴル)における日本の特殊権益を断固として死守する方針を決定するなど、中国大陸への帝国主義的な介入を露骨に強めていった。
普通選挙の実施と治安維持法の改悪
国内政治においては、1928年(昭和3年)2月に日本憲政史上初となる男子普通選挙(第16回衆議院議員総選挙)を実施した。しかし、この選挙で無産政党から複数の当選者が出たことに強い危機感を抱いた田中内閣は、同年3月に全国的な一斉摘発を行い、日本共産党員や労働運動家など数千人を検挙した(三・一五事件)。
さらに田中は、左翼思想の蔓延を徹底的に封じ込めるため、議会を通さず緊急勅令という強硬手段で治安維持法を改正した。国体変革を企てる結社の目的遂行罪を新設するとともに、最高刑に「死刑」を追加し、思想犯を厳罰に処す方針を明確にした。これに合わせ、特別高等警察(特高)を全国の府県に設置し、戦前の苛烈な思想弾圧体制の骨格を完成させたのである。
張作霖爆殺事件と失脚
田中外交の強硬路線は、結果的に現地軍(関東軍)の独走を招くこととなった。1928年6月、日本の支援を受けていた奉天軍閥のトップ・張作霖が、北伐軍に敗れて満州へ逃れる途上、関東軍の謀略によって列車ごと爆破・暗殺される事件(張作霖爆殺事件/満州某重大事件)が発生した。
田中は当初、事件の首謀者である関東軍参謀の河本大作らを軍法会議で厳罰に処す方針を昭和天皇に奏上したが、陸軍や閣内からの猛烈な反対に遭い、最終的に行政処分のみでうやむやにしてしまった。この前言の翻しと、軍部に対する統制力の欠如が昭和天皇の強い不興を買い、「田中総理の言っていることはちっとも判らない、再び聞くことはない」という異例の譴責を受けた。
天皇の信任を失った田中内閣は、1929年(昭和4年)7月に内閣総辞職へと追い込まれた。政界の頂点から急転直下で失脚した田中は、総辞職からわずか2ヶ月余り後に狭心症で急死した。彼の内閣総辞職劇は、軍部の暴走を政党政治が抑えきれなくなるという、その後の昭和史の暗い行く末を象徴する出来事であった。