旅順・大連 (りょじゅん・だいれん)
【概説】
遼東半島南端に位置し、近代東アジア史において列強の権益争いの焦点となった港湾都市。1898年にロシアが清から租借して軍港および商港として開発したが、日露戦争での勝利を経て日本の租借地となった。
三国干渉とロシアによる租借
日清戦争(1894〜1895年)の講和条約である下関条約において、日本は清から台湾や澎湖諸島とともに遼東半島の割譲を受けた。しかし、極東への進出を企図していたロシアは、フランス・ドイツとともに三国干渉(1895年)を行い、日本に遼東半島を清へ還付させた。日本国内では「臥薪嘗胆」を合言葉に、ロシアへの対抗心が急速に高まることとなった。
その後、列強による中国分割が進む中、ロシアは1898年に清国に迫り、旅順・大連を含む遼東半島南部を25年間の期限で租借した。ロシアにとって、冬季でも海面が凍結しない不凍港の獲得は長年の悲願であった。ロシアは旅順を太平洋艦隊の根拠地として世界有数の要塞へと改修し、大連を「ダーリニー」と名付けて東清鉄道の南満洲支線と結び、巨大な国際商港としての開発を推し進めた。
日露戦争と旅順要塞の攻防
ロシアの満州・朝鮮への進出は、日本の安全保障上の重大な脅威となり、1904年の日露戦争勃発の直接的な原因となった。開戦後、日本海軍が制海権を完全に掌握するためには、旅順港に立てこもるロシア太平洋艦隊(旅順艦隊)を撃滅することが不可欠であった。
陸側から要塞を攻略するため、乃木希典大将率いる第3軍が編成され、過酷な旅順攻囲戦が展開された。ロシア軍が機関銃などを配備した近代的な防衛陣地を築いていたため日本軍は多大な犠牲を払ったが、激戦の末に203高地を占領し、1905年1月に旅順要塞を陥落させた。この勝利は、その後の日本海海戦での決定的勝利へとつながる重要な転換点となった。
日本の租借地「関東州」としての発展
日露戦争後の1905年に結ばれたポーツマス条約により、日本はロシアから旅順・大連の租借権、ならびに長春・旅順間の鉄道(のちの南満州鉄道)とその付属の利権を譲り受けた。日本は旧租借地一帯を「関東州」と命名し、統治機関として関東都督府(のちの関東庁)を設置した。また、この地を守備するために配置された軍隊が、のちの満州事変を引き起こす関東軍である。
日本統治下において、旅順は軍港および行政・教育の中心地として機能した。一方の大連は、南満州鉄道(満鉄)の本社が置かれ、満州経営の玄関口となる国際貿易港として飛躍的に発展した。1915年の二十一カ条の要求によって租借期限は99カ年(1997年まで)に延長され、大連は昭和初期にかけて、近代的な都市計画に基づく壮麗な建築物が立ち並ぶ大都市へと成長を遂げた。
第二次世界大戦後の動向
1945年8月、ソ連の対日参戦によって旅順・大連はソ連軍に占領され、日本の統治は終焉を迎えた。その後、中ソ友好同盟条約などに基づいてしばらくの間ソ連軍が駐留を続けたが、1955年に中華人民共和国へ完全に返還された。現在は中国の遼寧省大連市の一部として、東アジア有数の経済・港湾都市としての役割を担っている。