ジョン=ヘイ
【概説】
19世紀末から20世紀初頭にかけて、マッキンリーおよびセオドア=ルーズベルト政権で国務長官を務めたアメリカの政治家・外交官。日清戦争後に列強による中国分割が進む中、出遅れたアメリカの立場から「門戸開放宣言(通牒)」を発し、東アジア外交における米国の存在感を高めた人物である。
中国分割への焦りと「門戸開放宣言」の提唱
19世紀末、アメリカ合衆国は国内のフロンティアの消滅や工業化の急進展に伴い、海外市場、とりわけ巨大な清国(中国)市場への進出を模索していた。しかし、1898年の米西戦争の結果としてフィリピンを領有し、東アジアへの足がかりを得たときには、すでに日清戦争で敗北した清国をめぐって、日・英・仏・独・露などの列強による激しい勢力圏争い(中国分割)が既成事実化しつつあった。
自国の租借地や勢力圏を持たないアメリカが、後発ながら中国市場へ参入するため、国務長官であったジョン=ヘイは、1899年に列強に対して第一次の、翌1900年の義和団事件の最中には第二次の門戸開放宣言(通牒)を発表した。この宣言でヘイは、中国における列強の租界や勢力範囲内での商業活動の自由を求める「門戸開放」と「機会均等」、そして中国の「領土(主権)保全」を主張し、国際協調の体裁をとりながら自国の経済進出ルートを確保しようとした。
日米協調から対立へ:日本外交との連動と歴史的意義
ジョン=ヘイが推進した門戸開放政策は、明治期の日本外交、特に日露戦争前後の対外政策と密接に連動していた。当時、ロシアが満州から朝鮮半島へと南下政策を強めるなか、日本はこれに対抗するためにイギリスやアメリカとの協調を模索していた。日本はヘイの門戸開放宣言を支持することで、ロシアによる排他的な満州支配を批判する外交的大義名分を得たのである。
日露戦争(1904年〜1905年)において、アメリカが日本を財政的・外交的に強力に支持したのも、ロシアに満州を開放させ、「機会均等」を維持するためであった。アメリカは日本をロシアの南下を阻む「防波堤」とみなしていた。しかし、日露戦争に勝利した日本がポーツマス条約や日清満州善後条約を通じて南満州の権益を独占・固定化し始めると、アメリカはこれを「門戸開放」に対する裏切りとみなすようになった。ヘイはポーツマス講和会議の直前である1905年7月に病没したが、彼が敷いた門戸開放の原則は、その後の日米が満州・中国市場をめぐって対立(日米対立の始まり)へと向かう重要な伏線となった。