集議院 (しゅうぎいん)
1869年
【概説】
明治初期に設置された公議世論形成のための立法諮問機関。1869(明治2)年に従来の公議所を改組して誕生し、各藩の代表者が国政について議論を交わした。その後、中央集権体制の構築が進むなかで、1871年に太政官制の左院へと吸収された。
公議所からの改組と集議院の役割
明治新政府は、五箇条の御誓文に掲げられた「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」という公議世論の尊重を具現化するため、1869(明治2)年3月に諸藩の代表である公議人からなる公議所を設置した。しかし、同年6月の版籍奉還を経て、7月に二官六省制を中心とする官制改革が行われると、公議所は集議院へと改組された。公議人は「集議臣」と改称され、引き続き国政における諸問題の討議や、新法律案の審議などの諮問機関としての役割を担った。
集議院の限界と左院への継承
集議院は言論による合意形成を目指したものの、当時は封建的な地方分権から中央集権国家へと移行する激動期であり、藩閥官僚による主導権争いの中でその政治的地位は急速に形骸化していった。特に1871(明治4)年7月の廃藩置県によって藩そのものが消滅したことで、藩を代表する集議臣という存在の前提が失われることとなった。同年8月、太政官制の再編によって正院・左院・右院からなる三院制が整備されると、集議院は立法諮問機関である左院へと統合・吸収され、その役割を終えた。集議院の試みは短命に終わったものの、幕末以来の公議世論の尊重という潮流を、のちの自由民権運動や帝国議会の開設へと繋ぐ過渡期の組織として位置づけられる。