皇親
【概説】
天皇の血を引く血縁グループ(皇族)を指す歴史用語。飛鳥時代後半の天武天皇期において、有力豪族を排除して中央集権化を進めるための政治的主体として重用され、後の律令制において法的な特権身分として確立された。
壬申の乱と「皇親政治」の成立
飛鳥時代後期、天武天皇は古代最大の内乱である壬申の乱(672年)を勝ち抜き、強力な専制権力を掌握した。天武天皇は、それまでのヤマト政権において国政を主導していた大臣(おおおみ)や大連(おおむらじ)といった有力豪族たちを政権の中枢から排除した。これに代わり、天皇自身の兄弟や皇子といった緊密な血縁関係にある「皇親」を太政大臣や知太政官事などの要職に就任させ、天皇親政の基盤を固めた。この政治形態を皇親政治と呼ぶ。代表的な人物としては、草壁皇子や大津皇子、高市皇子らが挙げられる。皇親に権力を集中させることは、豪族間の不毛な権力闘争を防ぎ、大王(天皇)を中心とする中央集権的な律令国家体制を急速に構築する上で極めて効果的な手段であった。
律令秩序における皇親の特権的地位
天武・持統期から奈良時代にかけて整備された律令法(大宝律令や養老律令)において、皇親は「臣(しん)」(一般の臣下)とは明確に区別された特権的な階層として規定された。「継嗣令(けいしりょう)」によれば、天皇の兄弟および皇子は「親王(内親王)」、それ以外の五世の孫(天皇から数えて5代目)までは「王(女王)」と定められた。皇親は、一般の臣下に適用される位階制度とは異なる独自の「品位(ほんい)」や「等(とう)」を与えられ、経済的にも莫大な封戸(ふこ)や資人(しじん)を支給されるなど、社会的・経済的秩序の頂点に君臨する神聖な存在として法的に位置づけられた。
皇親政治の変質と臣籍降下への移行
皇族主導の政治体制は、奈良時代初期の長屋王の変(729年)や、官僚制の整備に伴う藤原氏の台頭によって次第に変質していった。実務能力を重視する官僚機構が成熟するにつれ、政治の実権は皇親から藤原不比等をはじめとする官僚層へと移行。橘諸兄(元皇族の葛城王)のような例外を除き、皇親が直接政治を牽引する局面は減少した。さらに、時代が下るにつれて皇親の数が急増したことは、国家財政を著しく圧迫する要因となった。この財政難を解消するため、嵯峨天皇期以降、皇族に姓(源氏や平氏など)を与えて臣下の身分に降格させる臣籍降下が本格化し、特権的な皇親の規模は縮小・再編されていくこととなった。