元正天皇 (げんしょうてんのう)
【概説】
奈良時代前期に在位した、日本史上5人目、第44代の女性天皇。前代の元明天皇から譲位されて即位し、首皇子(のちの聖武天皇)への皇位継承を繋ぐ「中継ぎ」の役割を果たした。その治世においては、律令国家の法制・歴史書の整備が進むとともに、土地制度の根幹に関わる重要な法令が次々と制定された。
「中継ぎ」としての即位と皇位継承の安定化
元正天皇は、天武天皇と持統天皇の長男である草壁皇子を父に持ち、元明天皇を母に持つ。彼女の即位は、天武・持統系の血統(皇統)を維持・固定化するための極めて政治的な措置であった。
当時、正統な後継者と目されていた首皇子(のちの聖武天皇)はまだ幼く、政治的混乱を避けるために母の元明天皇が中継ぎとして即位していた。しかし、元明天皇が老齢となった際にも首皇子はまだ15歳であり、直ちに即位させるには不安が残った。そこで、首皇子の伯母にあたる元正天皇が、皇統を聖武天皇へと確実に繋ぐためのさらなる中継ぎとして、霊亀元年(715年)に即位することとなった。歴代の女帝の多くが天皇の未亡人(皇后)であったのに対し、元正天皇は生涯独身を通したまま即位した初の女性天皇であり、天武・持統系の純粋な直系血統を維持するための苦肉の選択であったと言える。
律令体制の整備と『日本書紀』の完成
元正天皇の治世は、律令国家としての体制が一段と強化された時代であった。即位の5年後にあたる養老4年(720年)には、舎人親王らが編纂を進めていた日本最初の勅撰史書『日本書紀』が完成し、天皇に奏上された。これは、唐(中国)をはじめとする東アジア諸国に対し、日本が独自の歴史と天皇家を中心とする正当な国家統治権を持つことを示す画期的な出来事であった。
また同じ養老4年には、右大臣の藤原不比等が中心となって編纂が進められていた養老律令が完成した。この律令は大宝律令を微修正したものであり、実際に施行されたのはのちの天平宝字元年(757年)であるが、法典としての完成は元正天皇の治世における重要な官僚的成果であった。
土地制度の行き詰まりと「三世一身法」の制定
元正天皇の治世後半には、律令制の根幹を揺るがす社会問題が顕在化しつつあった。人口の増加に伴って班給すべき口分田が不足し、同時に過酷な税負担から逃れるための浮浪や逃亡、さらに口分田の荒廃が深刻化したのである。
これに対し、朝廷は養老6年(722年)に「百万町歩開墾計画」を掲げて大規模な開墾を奨励したが、労働力や資材の不足から十分な成果を上げられなかった。そこで翌養老7年(723年)、朝廷は三世一身法(さんぜいっしんのほう)を制定した。これは、新しく開墾した者には三代(本人・子・孫)にわたり、既存の池溝を利用して開墾した者には一代(一身)に限り、開墾地の私有を認めるという妥協的措置であった。公地公民制の原則に例外を設けることで人々の開墾意欲を刺激しようとしたこの試みは、のちの「墾田永年私財法」へと繋がる、日本の土地制度における重要な歴史的転換点となった。