掖玖 (やく)
【概説】
現在の鹿児島県屋久島を指す、古代日本における呼称。律令国家の形成期である7世紀末から奈良時代にかけて、多禰(種子島)などとともに「南島」と称され、大和朝廷に対して特産物の貢納を行った地域である。
律令国家の「境界」と南島交渉
大和朝廷による日本古代の律令国家形成期、特に7世紀後半から8世紀(奈良時代)にかけては、支配領域の拡大と国家の境界を明確にする政策が進められた。東北地方における蝦夷(えみし)の懐柔や征討と対をなすように、九州南部から南西諸島にかけての地域は「南島(なんとう)」と呼ばれ、朝廷による掌握の対象となった。
『日本書紀』や『続日本紀』などの史料には、これら南島の住民が朝廷に使者を送って帰順し、あるいは朝廷から使者が派遣された記録が数多く残されている。「掖玖」はその代表的な地域の一つとして、多禰(たね:種子島)、阿摩弥(あまみ:奄美大島)、度感(とかむ:徳之島)などとともに、大和朝廷の権威が及ぶ南限の島々として意識されていた。
特産物の貢納と多禰国の設置
掖玖をはじめとする南島の島々は、大和朝廷に対して現地の特産物を貢納することで、形式的な服属関係を取り結んだ。これらの貢納品は、九州の統治機関である大宰府(だざいふ)を経由して平城京へと運ばれた。掖玖(屋久島)からは、当時の貴族社会で工芸品や装飾品として極めて珍重された夜光貝(やこうがい)などの貴重な貝類や、南国特有の木材がもたらされたと考えられている。
702年(大宝2年)には、南島情勢の安定化や対外交渉の拠点整備を目的として、大隅諸島を管轄する「多禰国(たねのくに)」が設置され、掖玖もその一部として律令制の地方行政組織に組み込まれていった。掖玖との交渉や支配の試みは、当時の日本(倭国)が自らを「帝国」として位置づけ、周辺の「異民族」を従えるという中華思想的な天下観を形成・維持していく上で、重要な歴史的意義を持っていたのである。