第5次吉田茂内閣
【概説】
1953年(昭和28年)のいわゆる「バカヤロー解散」による総選挙を経て成立した、吉田茂の最後となる内閣。少数与党として厳しい政権運営を強いられる中、大規模な汚職事件である造船疑獄と、その捜査に対する法相の指揮権発動が国民の猛烈な反発を招いた。その後、鳩山一郎ら反主流派の離党と「日本民主党」の結成によって内閣不信任案の可決が確実となり、総辞職に追い込まれた政権である。
少数与党での船出と基盤の弱体化
1953年の「バカヤロー解散」に伴う第26回衆議院議員総選挙において、吉田茂率いる自由党は過半数を割り込む結果となった。吉田は改進党(重光葵総裁)などの閣外協力を得ることで辛うじて第5次内閣を発足させたが、政権基盤は過去の内閣と比較して著しく弱体化していた。
党内では、公職追放から復帰した鳩山一郎や三木武吉ら反主流派との主導権争いがくすぶり続けており、野党のみならず与党内からも吉田の強権的・ワンマン的な政治手法に対する批判が高まりつつあった。この時期、アメリカとの間でMSA協定(日米相互防衛援助協定)を結び、保安隊を自衛隊へと改組(防衛庁設置法・自衛隊法の成立)するなど防衛力の強化を進めたが、政局は常に不安定な状態にあった。
造船疑獄と「指揮権発動」の代償
政権の命運を決定づけたのが、1954年(昭和29年)に発覚した戦後最大級の汚職事件である造船疑獄(ぞうせんぎごく)である。海運・造船業界から政界へ巨額の賄賂が流れたとされるこの事件の捜査は、与党・自由党の中枢にまで及び、ついに自由党幹事長であった佐藤栄作(のちの首相)の逮捕が目前に迫った。
この事態に対し、吉田首相の意を受けた犬養健法務大臣は、検察庁法に基づく権限を用いて検事総長に逮捕の延期を命じる、いわゆる「指揮権発動」を行った。この露骨な政治介入によって佐藤の逮捕は免れたものの、法相は直後に辞任へと追い込まれた。政治が司法を歪めたとして世論の怒りは沸騰し、吉田内閣への支持は致命的に失墜することとなった。
反吉田新党の結成と長期政権の終焉
世論の激しい反発と政権の求心力低下を背景に、党内の反吉田勢力はついに公然と反旗を翻した。1954年11月、鳩山一郎や岸信介らが自由党を離党し、野党であった改進党などと合流して新たな保守政党である日本民主党を結成したのである。これにより、衆議院における勢力図は完全に逆転し、野党側が過半数を占めるに至った。
日本民主党および左右の社会党によって内閣不信任決議案が提出されると、吉田はなおも衆議院の解散を模索したが、緒方竹虎副総理や党幹部の強い反対に遭い断念した。同年12月7日、不信任案の採決を前に第5次吉田内閣は総辞職を選択した。1948年の第2次内閣発足から約6年余り、サンフランシスコ平和条約の締結など戦後日本の方向性を決定づけた「吉田時代」は、保守再編のうねりの中で静かに幕を下ろしたのである。