伊達氏 (だてし)
【概説】
鎌倉時代に陸奥国伊達郡に土着し、戦国時代から安土桃山時代にかけて東北地方南部で一大勢力を築いた武士の一族。室町時代に陸奥守護となり、戦国時代の伊達稙宗による分国法『塵芥集』の制定や、伊達政宗による奥州制覇を経て、江戸時代には仙台藩を治める大名家として繁栄した。
伊達氏の出自と奥州における権益の確立
伊達氏は、藤原北家山陰流の中村朝宗が、1189年の源頼朝による奥州合戦で軍功を挙げ、陸奥国伊達郡(現在の福島県伊達市周辺)の地頭に任じられたことに始まる。朝宗の嫡子である宗村が伊達郡に入部して「伊達」を名乗り、ここに地着大名としての伊達氏が誕生した。
室町時代、奥州の統治は室町幕府が派遣する奥州管領(大崎氏など)や鎌倉府の管轄下に置かれていたが、伊達氏は早くから幕府将軍と直接主従関係を結ぶ京都扶持衆となり、独自の立場を築いた。14世紀末の伊達政宗(大膳大夫、戦国期の政宗の祖先)の代には、鎌倉公方・足利氏満と武力で衝突(伊達の乱)するなど、東北南部において屈指の実力を持つ独立勢力としての地位を固めていった。
伊達稙宗による集権化と「天文の乱」
戦国時代に入ると、14代当主である伊達稙宗(たねむね)が陸奥国守護に任じられ、卓越した外交・軍事手腕で勢力を拡大した。稙宗は近隣の最上氏、相馬氏、蘆名氏らと婚姻・養子縁組関係を結ぶことで「伊達外交秩序」とも呼ぶべき緩やかな同盟網を構築した。また、1536年には戦国大名としての領国支配を強固にするため、分国法である『塵芥集』(じんかいしゅう)を制定した。これは全171条からなり、中世の分国法の中でも最大の条文数を誇る極めて体系的な法典であり、伊達氏の支配体制の成熟を示している。
しかし、稙宗が進める急進的な集権化や、他国への養子縁組を伴う領土政策は、家臣団の不満や親族間の対立を招いた。1542年、稙宗の嫡男である伊達晴宗(はるむね)が父の政策に反対して反旗を翻し、奥羽諸大名を二分する大内乱「天文の乱」が発生した。6年余りにおよんだこの乱は晴宗の勝利に終わったが、伊達氏の覇権は一時的に大きく後退し、家臣団の自立を許す結果となった。晴宗、そしてその子である輝宗は、この内乱で分散した権力の再構築と家臣団の再統制に力を注ぐこととなる。
独眼竜・伊達政宗の登場と豊臣政権下での葛藤
1584年、17代当主となった伊達政宗は、父・輝宗の急進的な隠居に伴い若くして家督を継ぐと、それまでの和睦調停路線を捨てて積極的な領土拡大へと乗り出した。政宗は南奥州の覇権をめぐり、蘆名氏や佐竹氏らと衝突した。1585年の人取橋の戦いや、1589年の摺上原(すりあげはら)の戦いで大勝を収めた政宗は、蘆名氏を滅ぼして会津地方を支配下に置き、伊達氏の版図は史上最大となった。
しかし、同時代に関東以西で天下統一を推し進めていた豊臣秀吉は、私闘を禁じる「惣無事令」を全国に布告していた。政宗の軍事行動はこの命令に違反していたため、1590年の小田原征伐の際、政宗は秀吉への恭順か徹底抗戦かで苦渋の選択を迫られた。最終的に小田原へと参陣して秀吉に臣従したものの、惣無事令違反の咎により会津領などの没収処分を受けた。さらに、その後に発生した葛西大崎一揆の煽動疑惑などを経て、領地をさらに北方の岩出山城(宮城県大崎市)へと移された。これにより伊達氏の奥州制覇の野望は挫折したが、政宗の卓越した政治力により、豊臣政権下での大名としての存続は許された。
秀吉の死後は徳川家康に接近し、1600年の関ヶ原の戦いにおいては東軍に属した。その功績により、戦後に居城を青葉城へと移し、62万石の石高を擁する巨大大名家としての仙台藩が成立した。江戸時代の伊達氏は、仙台藩主として高い文化的影響力を保ちつつ、幕藩体制の一翼を担い続けた。