甲斐国
【概説】
東海道(後に東山道)に属する令制国の一つで、現在の山梨県にあたる地域。四方を険しい山々に囲まれた盆地を中心とし、中世から戦国時代にかけては名門・甲斐源氏の流れを汲む武田氏が代々守護や戦国大名として支配した土地。戦国期の武田氏滅亡後は、織田氏、徳川氏、豊臣氏などの勢力が交代で支配し、江戸時代には江戸防衛の要衝として重要視された。
地理的特質と甲斐源氏武田氏の台頭
甲斐国は、富士山や八ヶ岳、南アルプスなどの険しい山々に囲まれた甲府盆地を中心とする。この閉鎖的かつ堅固な地形は、外敵の侵入を防ぐ天然の要害となる一方で、平地が少なく釜無川や笛吹川などの氾濫に悩まされるなど、農業生産力を高めるには多くの困難を伴う土地であった。
この地で平安時代末期から勢力を伸ばしたのが、清和源氏の一派である甲斐源氏であった。鎌倉時代に守護となった武田氏は、室町時代に一時的な中絶や内紛を経験しつつも支配を維持した。戦国時代に入ると、武田信虎が甲斐国内の国人領主を統合して甲府の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)に拠点を移し、守護大名から戦国大名としての脱皮を遂げた。その子である武田信玄(晴信)の時代には、治水事業である「信玄堤」の築造や分国法「甲州法度之次第」の制定、さらには日本最古の公鋳貨幣ともされる甲州金の鋳造などを通じて強固な領国経営を行い、甲斐国は戦国最強と謳われた武田軍団の揺るぎない基盤となった。
織豊政権の進出と「天正壬午の乱」
天正10年(1582年)、信玄の後を継いだ武田勝頼が、織田信長・徳川家康の連合軍による侵攻(甲州征伐)によって自害に追い込まれ、名門武田氏は滅亡した。甲斐国は一時、織田氏の家臣である河尻秀隆に与えられたが、同年に発生した本能寺の変によって織田氏の支配力は即座に崩壊し、甲斐・信濃の旧武田領を巡る激しい争奪戦である天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)が勃発した。
この乱において、徳川家康、北条氏直、上杉景勝が対立したが、家康は旧武田家臣(甲斐衆)を取り込んで味方に付け、武田氏の遺臣組織を再編することで甲斐・信濃の支配権を握ることに成功した。その後、豊臣秀吉による天下統一の過程で、徳川家康が関東に移封されると、甲斐国は豊臣系の諸大名(浅野長政・幸長ら)によって支配され、豊臣政権による東国支配の拠点として甲府城が築城された。
近世における甲斐国の歴史的位置づけ
関ヶ原の戦いを経て江戸幕府が成立すると、甲斐国は再び徳川氏の直轄地(天領)や徳川親藩(甲府藩)による支配へと戻った。甲府城を擁する甲斐国は、西国大名が江戸へ侵攻する際の最大の防衛拠点であり、また将軍に万一の事態があった際の避難場所としても想定されていたため、極めて重要視された。
元禄期には、将軍徳川綱吉の側用人として知られる柳沢吉保が甲府藩主となり、城郭の整備や城下町の復興、学問・文化の振興に尽力した。その後、享保年間(1724年)に甲府藩は廃止されて甲斐国全域が幕府直轄領(天領)となり、甲府勤番による支配体制が敷かれ、明治の廃藩置県(山梨県の成立)へと至るまで江戸幕府の強固な支配下におかれ続けた。