清浄光寺(遊行寺)

神奈川県の藤沢にあり、「遊行寺」の通称で親しまれている時宗の総本山の寺院はどこか?
カテゴリ:
重要度
★★

清浄光寺(遊行寺) (しょうじょうこうじ(ゆぎょうじ)

1325年創建

【概説】
神奈川県藤沢市に位置する、浄土門仏教の一派である時宗(じしゅう)の総本山。時宗の長である歴代の「遊行上人(ゆぎょうしょうにん)」が住持する寺院となったことから、通称「遊行寺」として広く知られる。鎌倉時代末期における創建以来、踊念仏と民衆救済の精神を中世から近世へと伝える信仰の拠点である。

一遍の「遊行」思想と寺院の起源

鎌倉時代中期に一遍(一遍智真)によって開かれた時宗は、特定の寺院(伽藍)や土地に執着せず、日本全国を旅しながら「南無阿弥陀仏」の念仏札を配る「賦算(ふさん)」と、歓喜して踊りながら念仏を唱える「踊念仏(おどりねんぶつ)」を特徴とする宗派であった。この旅の生活を「遊行」と呼び、一遍の跡を継いだ他阿真教(たあしんきょう)らの歴代の上人もまた、各地を巡行して民衆の救済と布教に努めた。

しかし、信徒の増加にともない、教団としての拠点や歴代上人の墓所となる中心的な道場が必要とされるようになった。こうした背景のもと、1325年(正中2年)に遊行四代の他阿真光(しんこう)が、相模国(現在の神奈川県藤沢市)の地頭であった俣野氏らの帰依を受け、時宗の道場を建立した。これが清浄光寺の始まりである。

「遊行寺」の名の由来と歴代上人の定住

清浄光寺が「遊行寺」と呼ばれるようになったのは、時宗の最高指導者である「遊行上人」がここに留まるようになったためである。本来、時宗の教規において上人は各地を「遊行」し続ける義務があったが、高齢に達した上人や、引退した「藤沢上人」が、かつての修行地であったこの清浄光寺に定住(独住)する慣習が生まれた。

これにより、清浄光寺は時宗教団を統括する「総本山」としての地位を確立していく。広大な伽藍を有し、東国における浄土教信仰の大きな潮流を形成するに至った。

歴史の荒波と東海道・藤沢宿の発展

室町時代から戦国時代にかけて、清浄光寺は度重なる戦火に見舞われた。特に1513年(永正10年)、相模国への進出を目論む伊勢宗瑞(北条早雲)と三浦義同(道寸)との戦いの最中に寺は全焼し、一時期は駿河国(現在の静岡県)などに避難を余儀なくされた。しかし、後に後北条氏や徳川家康の支援によって再興を果たした。

江戸時代に入ると、江戸幕府の寺社政策(本末制度)により、全国の時宗寺院を支配する本山として正式に認められた。また、寺の周辺は東海道五十三次の6番目の宿場町である「藤沢宿」として整備され、遊行寺はその象徴的な存在として旅人や参詣者で大いに賑わった。現在でも、箱根駅伝の「遊行寺の坂」などの地名にその歴史的痕跡を留めている。

図説「鎌倉史」発見: 史跡・伝説探訪の小さな旅

史跡や伝説を辿りながら古都鎌倉の知られざる歴史と魅力を再発見する、現地散策の楽しさを詰め込んだ一冊。

詳説日本史図録

教科書『詳説日本史』の内容を、豊富な写真や図解、地図でビジュアル化した超定番の図録。文字だけでは理解しにくい歴史の流れや文化財のディテールが視覚的に頭に入る。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

Q. 鈴木商店に対する巨額の不良債権を抱えて休業に陥り、第1次若槻内閣がその救済のための緊急勅令を否決されて倒れる原因となった銀行はどこか?
Q. 6世紀半ばに朝鮮半島から公伝され、神道と対立(崇仏論争)しつつも、日本の文化や政治に多大な影響を与えた宗教は何か?
Q. 1205年、北条時政と牧の方が、将軍実朝を暗殺して平賀朝雅を新将軍にしようと企てたが、政子・義時姉弟によって阻止された事件は何か?