仏教

重要度
★★★

仏教

538年または552年伝来

【概説】
6世紀中頃、百済の聖明王から大和王権の欽明天皇へと公式に伝えられた外来宗教。蘇我氏などの新興豪族を中心に受容されて飛鳥文化の基盤となるとともに、後の律令国家形成に向けた思想的支柱となった。

仏教公伝と激動の東アジア情勢

インドで成立した仏教は、中国や朝鮮半島を経て、6世紀の古墳時代後期に日本へともたらされた。この公式な伝来(仏教公伝)は、当時の緊迫した東アジア情勢と密接に結びついていた。朝鮮半島では新羅や高句麗が勢力を拡大しており、圧迫を受けていた百済聖明王は、大和王権との軍事的・政治的同盟を強化する目的で、欽明天皇に対して金銅の釈迦仏像や経典などを献上したのである。

公伝の年代については古くから議論があり、『日本書紀』の記述に基づく552年(壬申説)と、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』に基づく538年(戊午説)が存在する。現在では、他の歴史史料との整合性などから538年説が有力とされている。なお、公伝以前にも渡来人たちによって私的に仏教は信仰されていた(私伝)と考えられているが、国家間の正式な外交交渉のなかで仏教がもたらされたことの歴史的意義は極めて大きい。

崇仏論争と豪族間の権力闘争

伝来した新たな宗教をどのように扱うかを巡り、大和王権の内部では激しい対立が生じた(崇仏論争)。渡来人と結びつき、大陸の先進技術や思想を積極的に取り入れようとした大臣の蘇我稲目が仏教の受容(崇仏)を主張したのに対し、伝統的な神祇祭祀を司り、古来の神々を重んじた大連の物部尾輿や中臣鎌子は強硬に排仏を唱えた。

当時の日本人は仏教の仏を「蕃神(となりのくにのかみ)」、すなわち異国の強力な神として認識しており、普遍的な教理への理解はまだ浅かった。折しも疫病が流行すると、物部氏らはこれを「異国の神を拝んだことによる国神の怒り」と主張し、仏像の廃棄や寺の焼亡を行った。この宗教的対立は、朝廷内での政治的主導権争いと不可分であり、次代の蘇我馬子物部守屋の代にはついに武力衝突へと発展する。587年の丁未の乱で蘇我氏が物部氏を滅ぼしたことで、日本における仏教受容の方向性が決定づけられた。

飛鳥文化の開花と氏寺建立の流行

蘇我氏の勝利によって仏教が公認されると、日本初の本格的な伽藍配置を持つ飛鳥寺(法興寺)をはじめとする寺院建築が開始された。仏教は単なる宗教・信仰にとどまらず、大陸の高度な建築土木技術、仏像彫刻、絵画、さらには文字や暦法などの学問を伴う「総合的な先進文化のパッケージ」として受容された。これが日本初の仏教文化である飛鳥文化の基盤となったのである。

また、この時期から各地の有力豪族たちは、一族の繁栄を祈願し、自らの権威を誇示するために競って氏寺を建立するようになった。古墳時代を通じて権力の象徴であった巨大な前方後円墳の造営は急速に衰退し、それに代わって壮麗な寺院とそびえ立つ塔が新たな権威の象徴となった。これは、支配層における富と権力の表現方法が「墓(死)」から「寺(生・思想)」へと歴史的に大きく転換したことを意味している。

国家仏教への展開と律令国家への道

仏教は当初、蘇我氏などの有力氏族による私的な信仰という側面が強かったが、推古天皇と聖徳太子(厩戸王)の時代に入ると、国家の基盤をなす思想へと昇華していく。594年に出された三宝興隆の詔により、国を挙げて仏・法・僧(三宝)を敬う方針が示され、聖徳太子が制定したとされる『十七条の憲法』の第二条でも「篤く三宝を敬へ」と明記された。

これは、血縁や地域的なつながりに根ざした古来の神祇信仰とは異なり、仏教という普遍的な理念を用いることで、天皇(大王)を中心とした中央集権的な国家体制を築き上げようとする意図があった。百済からの伝来に端を発した仏教は、幾多の対立を乗り越えて日本の国家・社会に深く根を下ろし、その後の奈良時代の鎮護国家思想や、日本の精神文化の根幹を形成する決定的な原動力となったのである。

日本の仏教 (岩波新書 青版 299)

日本仏教の歴史的変遷と教理の本質を解き明かし、日本人の精神構造を読み解くための格好の入門書。

飛鳥大和美の巡礼 (講談社学術文庫 1227)

悠久の時を刻む飛鳥・大和の古刹や仏像を辿り、日本美の源流にある深い精神世界に触れる至高の紀行。

日本史一問一答(ランダム)

Q. 司馬達等の一族が所属していたとされる、馬の鞍や鐙(あぶみ)などの馬具を製造する専門技術を持った部民集団を何というか?
Q. 6世紀頃に朝廷でまとめられた、古くからの神話や伝説、説話の記録で、『帝紀』とともに記紀の基礎史料となったものは何か?
Q. 律令制において、人民の逃亡防止や治安維持のために5戸を1組として編成し、納税などの連帯責任を負わせた制度を何というか?