インパール作戦
【概説】
太平洋戦争(大東亜戦争)後期の1944年、日本陸軍がビルマ(現ミャンマー)からインド北東部の要衝インパールの攻略を目指して実施した軍事作戦。兵站(補給)を無視した極めて無謀な計画によって大失敗に終わり、戦史における「組織的破綻」の典型例として知られる悲劇的な作戦。
作戦の背景と「援蔣ルート」遮断の企図
太平洋戦争の勃発後、日本軍はビルマを占領したが、イギリス・アメリカなどの連合国軍は、中国の重慶国民政府(蔣介石政権)を支援するための物資輸送路である「援蔣ルート」を維持し続けていた。特にインド北東部のアッサム地方は、ヒマラヤを越えて中国へ物資を運ぶ空路(ハンプ越え)の重要な拠点であった。
ビルマ防衛を担当する日本陸軍の第15軍司令官・牟田口廉也中将は、この空路の基地であるインパールを攻略することで「援蔣ルート」を完全に遮断し、さらにはインドの独立運動家スバス・チャンドラ・ボースが率いる「自由インド仮政府」と結んで、インド国内に反英暴動を誘発させようと画策した。これにより、アジアにおける連合国軍の反攻拠点を根底から覆そうとしたのが、本件作戦の狙いである。
「ジンギスカン作戦」の破綻と「白骨街道」
作戦は1944年3月に開始されたが、その立案段階から大本営や方面軍の内部では無謀であるとの反対意見が強かった。インパールに到達するためには、大河を渡り、標高2000メートル級の荒険なアラカン山脈を越えなければならず、当時の日本軍にはそれを維持するだけの補給能力が欠如していたからである。
これに対し、牟田口司令官は現地で調達した牛や馬に物資を運ばせ、最後はそれらの動物を食料とする「ジンギスカン作戦」と呼ばれる強引な計画を強行した。しかし、重火器や食料を持たない日本兵は、急峻な地形や英軍の激しい空中爆撃により、進軍途中で牛馬の多くを失い、作戦は瞬く間に破綻した。さらに雨季の到来が追い打ちをかけ、泥濘と化したジャングルの中で、日本兵は戦闘ではなく飢餓やマラリア、赤痢などの疫病によって次々と倒れていった。
同年7月にようやく作戦中止が決定されたが、撤退の道中に力尽きた夥しい数の日本兵の遺骸が路傍に放置されたため、その退却路は後に「白骨街道」と呼ばれる凄惨な惨状を呈した。投入された約9万人の将兵のうち、死傷者は7万人を超え、その大半が餓死および病死であったとされている。この悲劇は、精神主義を過信し、客観的なデータや兵站を軽視した日本軍の組織的欠陥を象徴する事件として、現代に至るまで語り継がれている。