イタリアの降伏
【概説】
1943年9月、連合軍のシチリア島上陸を契機にムッソリーニ独裁政権が崩壊し、イタリア王国が連合国に対して無条件降伏した事件。第二次世界大戦における日独伊三国同盟の一角が崩れ、枢軸国陣営の中で最初の脱落国となった。この事態は、太平洋戦争で苦戦を強いられていた日本にも多大な政治的・精神的衝撃を与えた。
シチリア上陸とファシスト政権の崩壊
1943年に入ると、第二次世界大戦の潮流は完全に連合国側へと傾きつつあった。同年7月、英米連合軍はイタリア南端のシチリア島に上陸(ハスキー作戦)。これにより、イタリア国内では戦争継続を疑問視する声が急速に高まった。同月、ファシズム大評議会において首相ベニート・ムッソリーニの不信任が決議され、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世はムッソリーニを更迭・逮捕した。新たに首相となったピエトロ・バドリオ元帥は、ドイツに対しては同盟関係の維持を表明しつつ、水面下で連合国との和平交渉を模索し始めた。
無条件降伏とイタリア半島の分断
1943年9月3日、バドリオ政権は連合国との間で秘密裏に休戦協定に署名し、同月8日にこれが公式に発表された。これがイタリアの降伏である。しかし、この事態を予期していたナチス・ドイツ軍は即座に軍を動かしてイタリア北部・中部を制圧。幽閉先から救出されたムッソリーニを首班とする傀儡国家「イタリア社会共和国(サロ政権)」を樹立させた。一方、南部に逃れたバドリオ政府は連合国側に立ってドイツに宣戦布告した。これにより、イタリア半島は南北に分裂したまま、終戦まで激しい地上戦の舞台となる悲劇を迎えることとなった。
日本(東条英機内閣)への衝撃と終戦工作への影響
日独伊三国同盟を結び、軍事同盟の結束を謳っていた日本にとって、イタリアの降伏は極めて重大な外交的敗北を意味した。当時の東条英機内閣は、国内の動揺を防ぐために「バドリオによる裏切り」としてイタリア側の姿勢を激しく非難するプロパガンダを展開し、報道を厳しく統制した。しかし、指導部内では日本の外交的孤立の深化が意識され、敗戦への危機感が強まることとなった。
この事件は、日本国内の和平派(重臣や知識人など)に大きな影響を与えた。前首相の近衛文麿や、のちに吉田茂を中心とする和平派グループ(のちのヨハンセン・グループ)などは、ドイツ・日本の敗戦が不可避であるとの確信を強め、早期終戦に向けた水面下の動きを本格化させていくこととなる。イタリアの降伏は、日本の昭和史における「終戦への模索」を刺激した重要な契機であった。