観世座(結崎座)

大和猿楽四座のうち、観阿弥や世阿弥が所属し、将軍足利義満の庇護を受けて最も繁栄した座は何か?
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重要度
★★★

【参考リンク】
観世流(Wikipedia)

観世座(結崎座) (かんぜざ(ゆうざきざ)

14世紀〜

【概説】
大和国を拠点とした大和猿楽四座の一つであり、のちに観世座と称された芸能集団。観阿弥・世阿弥父子を輩出し、室町幕府第3代将軍・足利義満の厚い保護を受けて四座の中で最も繁栄を極めた。

大和猿楽四座と結崎座の台頭

鎌倉時代から室町時代にかけて、寺社のもとで神事や法会に奉仕する芸能集団である「座」が各地に結成された。なかでも大和国(現在の奈良県)では、興福寺や春日大社を本所(保護者)とする大和猿楽四座が存在した。四座とは、結崎(ゆうざき)、円満井(えんまんい)、外山(とび)、坂戸(さかど)の四つの座を指す。

このうちの一つである結崎座は、14世紀半ばの南北朝時代から室町時代初期にかけて、優れた才能を持つ観阿弥(清次)を座の棟梁に迎え、急速に頭角を現した。当時、芸能界では田楽(新和泉座の一忠など)が絶大な人気を誇っていたが、観阿弥は田楽の持つリズミカルな舞の要素を取り入れ、さらには近江猿楽の優美な「幽玄」の美意識を融合させることで、従来の猿楽を革新し、大和猿楽の地位を飛躍的に高めたのである。

足利義満の庇護と猿楽能の大成

結崎座にとって最大の歴史的転機となったのは、1374年(応安7年/文中3年)に京都の今熊野神社(新熊野神社)で行われた猿楽能の興行である。この興行を、室町幕府第3代将軍・足利義満が見物した。義満は観阿弥の円熟した芸と、当時まだ若年の息子・世阿弥(藤若)の瑞々しい才能に魅了され、彼らに幕府の強力な庇護を与えることを決めた。

最高権力者である将軍のパトロンとしての後援は絶大であった。結崎座はライバルであった田楽座や他の猿楽座を圧倒し、芸能界の中心へと躍り出た。義満の庇護のもと、世阿弥は猿楽の芸術性を極限まで高め、『風姿花伝』などの優れた能楽論書を著して、現在に続く「能楽」を大成させた。この発展の過程で、結崎座は観阿弥・世阿弥の法名にちなんで「観世座」と呼ばれるようになった。

時の権力者との結びつきと同族内の相克

しかし、足利義満の死後、観世座の歩みは必ずしも平坦ではなかった。第6代将軍・足利義教の時代になると、義教は世阿弥を疎んじ、代わって世阿弥の甥である音阿弥(観世元重)を重用するようになった。

音阿弥が観世座の太夫(座長)として幕府から手厚い保護を受け、華々しく活躍する一方で、世阿弥は仙洞御所への出入りを禁じられ、ついには佐渡島へ流罪となるなど、悲運をたどった。このように、観世座の内部における指導権や盛衰は、時の将軍の意向によって大きく左右される性質を持っていた。それでもなお、音阿弥の卓越した運営と演技力により、観世座は室町幕府の「御用座」としての確固たる地位を維持し、武家社会における最高峰の芸能集団として君臨し続けた。

後世への影響と歴史的意義

観世座が確立した能楽は、単なる民衆の娯楽や寺社の奉納芸能から、武家の「式楽(公的な儀式で演じられる芸能)」へと昇華していった。戦国時代を経て江戸時代に入っても、江戸幕府は観世座をはじめとする四座一流(観世・宝生・金春・金剛・喜多)を幕府の式楽として公認し、厚く保護した。その中でも、観世座は常に筆頭格として扱われた。

観阿弥・世阿弥が結崎座という集団を通じて蒔いた種は、日本芸能史において独自の「幽玄」という美意識を確立させた。室町時代に花開いたその伝統は、幾多の歴史の波を乗り越え、現代の能楽「観世流」として今なお脈々と受け継がれているのである。

観阿弥と世阿弥 (岩波新書 青版 719)

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日本文学史 (講談社学術文庫 1090)

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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