郡家(郡衙) (ぐうけ/ぐんが)
【概説】
飛鳥時代後期から律令体制下において、地方行政区画である「郡」に置かれた官庁。在地の有力豪族から任命された郡司が執務を行い、地方支配の実務を担った拠点。租税の徴収や管理、裁判、戸籍の作成など多岐にわたる実務が行われた。
律令制の整備と「郡家」の誕生
大化の改新から大宝律令(701年)の制定に至る過程で、大和政権はそれまでの「国造(くにのみやつこ)」などによる部民制を廃止し、全国を国・評(のちに郡)・里(郷)に分ける地方支配体制を敷いた。このうち「郡(こおり)」の行政実務を行う役所として、全国約600カ所に整備されたのが郡家(郡衙)である。
郡家の実務を担った「郡司」には、旧国造をはじめとするその地域の伝統的な有力豪族が任命された。中央から派遣され数年で交代する「国司」とは異なり、郡司は終身官であり、一族による世襲が認められる傾向が強かった。そのため、郡家は中央政府の命令を地方社会へ伝達・実行する実質的な最前線であり、地域社会の秩序を維持する象徴的な空間でもあった。
郡家の構造と多機能性:正倉と出挙
近年の考古学的調査により、郡家の構造は規格化されていたことが明らかになっている。一般的に、郡司が政務を行う「政庁」、国司などの使者を迎える「館(たち)」、そして徴収した税を保管する正倉(しょうそう)が配置されていた。
なかでも正倉の管理は郡家の最重要任務であった。ここには租税として徴収された米(租)が保管され、春に種籾を農民に貸し出し、秋の収穫時に利息を付けて回収する出挙(すいこ)の業務も郡家で執り行われた。出挙はもともと農民救済の制度であったが、次第に利息を主な目的とする国や郡の重要な財源へと変質していった。このほか、軍団の兵士の徴発や、戸籍・計帳の作成、地域内の訴訟の処理などもすべて郡家で行われていた。
地方支配の変容と郡家の衰退
平安時代に入ると、班田収授の励行が困難となり、律令制的な戸籍に基づく支配は機能しなくなっていった。これに伴い、政府は徴税の権限と責任を、中央から派遣される国司(受領)へと集中させる方針をとるようになる。
国司が自らの政庁である「国衙(こくが)」を拠点として直接、有力農民(田堵)から課税を行うようになると、在地の豪族である郡司の影は薄くなっていった。国衙の機能が肥大化する一方で、地方支配の中継点であった郡家は機能停止に追い込まれ、10世紀後半頃には多くの郡家が廃絶・衰退していった。郡家の衰退は、律令体制から王朝国家体制への移行を示す象徴的な事象であった。