ビゴー
【概説】
1882年(明治15年)に来日し、明治時代の日本の政治や社会を鋭く風刺したフランス人画家。鹿鳴館外交などの極端な欧化政策や不平等条約の矛盾、日清戦争をめぐる国際関係などを的確に描き出した。その作品は、当時の日本社会や国際政治の力学を知るうえで欠かせない一級の視覚史料である。
ジャポニスムと来日の背景
ジョルジュ・フェルディナン・ビゴーは、1860年にフランスのパリで生まれた。当時のヨーロッパは日本美術がもたらしたジャポニスム(日本趣味)の流行期にあり、ビゴーも浮世絵などに強い関心を抱いて、1882年(明治15年)に日本へ渡った。当時多く見られた高給の「お雇い外国人」としてではなく、私費での来日であった。彼は陸軍士官学校で画学教師などを務めながら、居留地に住んで日本の市井の人々の暮らしや風俗を熱心にスケッチし、1887年(明治20年)には風刺雑誌『トバエ』(Tôbaé、国宝「鳥獣人物戯画」を描いたとされる鳥羽僧正に由来する誌名)を創刊した。
欧化政策への痛烈な風刺と社会矛盾の告発
ビゴーが来日した明治10年代後半から20年代にかけては、明治政府が悲願である不平等条約の改正を目指し、外務卿(のち外務大臣)の井上馨を中心として極端な西洋化を推し進める鹿鳴館外交の時代であった。ビゴーは、上流階級が西洋人の真似事をして夜会に興じる姿を、鏡に映る猿に例えた風刺画などを残し、日本の表面的な近代化の滑稽さを鋭く突いた。
また、1886年(明治19年)に発生したノルマントン号事件を描いた作品では、沈没船からイギリス人船員のみが脱出し、日本人乗客が見殺しにされた悲劇を通じて、領事裁判権(治外法権)という不平等条約の理不尽さと西洋人の横暴を厳しく批判している。彼の視線は常に権力者ではなく弱者に寄り添っており、近代化の影で置き去りにされ、重税にあえぐ農民ら民衆の苦悩も的確に描き出した。
帝国主義時代の国際関係を描破
ビゴーの風刺は国内政治にとどまらず、東アジアをめぐる列強の帝国主義的な争いにも及んだ。とりわけ有名なのが、日清戦争前夜の東アジアの情勢を描いた「魚釣り遊び」である。この画では、橋の上で「朝鮮」という魚を釣り上げようと争う日本人と清国人、そしてその背後で様子をうかがい、あわよくば横取りしようとするロシア人の姿が描かれている。当時の複雑な国際政治力学と、列強の思惑を見事に一枚の絵に凝縮しており、現代の歴史教科書などにも頻繁に引用されている。
離日とその歴史的意義
1899年(明治32年)、日清戦争の勝利を経て日本の国際的地位が向上し、条約改正によって領事裁判権が撤廃され内地雑居が実施されると、ビゴーは17年間にわたる日本滞在に終止符を打ち、フランスへと帰国した。
彼が残した膨大な銅版画や水彩画、スケッチは、単なる政治批判の風刺画にとどまらない。近代化へとひた走る明治政府の矛盾を、外国人ならではの客観的な視点で切り取った貴重な史料である。それと同時に、急激な西洋化のなかで失われゆく日本の古き良き庶民の生活や風俗を温かな眼差しで記録した、第一級の歴史的・民俗学的証言として今日でも高く評価されている。