大隅国 (おおすみのくに)
【概説】
奈良時代の713年に、律令国家が南九州の在地勢力である「隼人」の支配を強化するために、日向国から分立・新設した令制国。現在の鹿児島県東部(大隅半島)および奄美群島などの島嶼部に相当する。この新設を契機として、南九州における律令支配の浸透と、それに対する隼人側の激しい抵抗運動が引き起こされることとなった。
律令国家の南九州拡大と大隅国の誕生
7世紀末から8世紀初頭にかけて、大宝律令の制定(701年)を進めた律令国家(大和朝廷)は、版図を南方へと拡大し、辺境支配を確立させる動きを急いだ。当時、南九州一帯には隼人(はやと)と呼ばれる、朝廷から見て「化外の民(国家支配の外側にある人々)」とされる独自の文化・社会組織を持つ集団が居住していた。彼らを律令制の枠組みに組み込むことは、国家的統合の観点から最重要課題であった。
まず702年(大宝2年)に南九州西部に薩摩国(および多褹国)が設置され、薩摩隼人への統制が強化された。これに続き、東側の「大隅隼人」をも本格的な直接支配下に置くため、713年(和銅6年)に日向国の南部を割いて大隅国が分立された。この大隅国の新設により、南九州全体の行政区分が整理され、国家による組織的な開発と管理の基礎が整えられることとなった。
大隅隼人の反乱と「内国化」の進展
大隅国の設置は、それまで緩やかな帰属関係にとどまっていた隼人たちに対して、戸籍・計帳の作成、班田収授、そして課役(調・庸や衛士の勤務など)を強制することを意味していた。伝統的な生業や習俗を脅かされた大隅隼人たちの不満は限界に達し、設置からわずか7年後の720年(養老4年)、大隅隼人たちが蜂起して大隅国守の陽候麻呂(やこのまろ)を殺害する大規模な反乱へと発展した。
朝廷はこの事態に対し、中納言の大伴旅人(おおとものたびと)を征隼人持節大将軍に任命し、大規模な討伐軍を派遣した。反乱の鎮圧には1年以上の歳月を要し、多くの隼人が斬首または捕虜とされる凄惨な結末をたどった。この「大隅隼人の乱」の平定以降、大隅国における朝廷の支配力は決定的なものとなり、本格的に班田収授法が施行されるなど、南九州の「内国化(律令国家の普遍的領土化)」が急速に進行していくこととなった。