薩摩国 (さつまのくに)
702年
【概説】
大宝2年(702年)に、九州南西部に設置された律令制における令制国。大和朝廷が南九州の先住民である隼人を国家の支配下に組み込む過程で成立し、対外防衛や海上交通の要衝としての役割を担った地域である。
律令体制の拡大と「唱更国」の設置
古代の南九州には、大和朝廷の支配に服さず独自の文化や社会組織を維持していた隼人(はやと)と呼ばれる人々が居住していた。7世紀後半から8世紀初頭にかけて、中央集権的な律令国家の形成を急ぐ朝廷は、南九州への直接的な支配拡大を試みた。大宝元年(701年)の大宝律令制定の翌年である大宝2年(702年)、朝廷は日向国の南西部を割いて唱更国(しょうこうのくに)を設置した。これがのちの薩摩国である。「唱更」とは辺境を守備するという意味を持ち、当初は先住勢力に対する軍事的な防衛・警戒線としての性格が極めて強かった。その直後、国家に反抗的であった現地住民を制圧したことで、国郡の編成が進み、正式に「薩摩国」へと改称された。
隼人の反乱と律令支配の浸透
薩摩国の設置に続き、和銅6年(713年)には東側に大隅国が設置された。しかし、急速に押し寄せる律令支配(戸籍の作成や調・庸の徴収など)は現地住民の激しい反発を招くこととなった。養老4年(720年)には大隅国守が殺害される大規模な「隼人の反乱」が勃発し、朝廷は大伴旅人を征隼人将軍として派遣し、大規模な軍事力をもってこれを鎮圧した。この反乱の終息以降、南九州における朝廷の支配体制は決定的なものとなり、薩摩国でも班田収授法や条里制が順次施行され、大和朝廷の強固な領域の一部となった。また、薩摩国は朝鮮半島や唐へと向かう遣唐使のルート(南島路)の寄港地としても重要な役割を果たし、日本の対外関係を支える地政学的要衝としての地位を確立していった。