ガダルカナル島撤退
【概説】
太平洋戦争中の1943年2月、ソロモン諸島のガダルカナル島において、日本陸海軍が連合国軍との激戦の末に撤退を余儀なくされた軍事作戦。約半年に及ぶ攻防戦は補給路の遮断により多数の餓死者・病死者を出し、日本軍の構造的弱点を露呈させた。この敗北は太平洋戦争における攻守の逆転を決定づける象徴的な大敗北となった。
「防衛線」の構築と泥沼の奪還戦
1942年6月のミッドウェー海戦で空母4隻を失った日本軍は、米豪間の連絡を遮断し南太平洋の制海権・制空権を確保するため、ソロモン諸島のガダルカナル島に飛行場建設を開始した。しかし、同年8月、アメリカ軍を中心とする連合国軍が突如として同島に上陸し、完成間近の飛行場を占領した。これに対し、日本軍は敵兵力を過小評価したまま一木支隊などの陸軍部隊を順次投入する「兵力の逐次投入」という戦術的失敗を重ね、大打撃を被ることとなった。
強力な近代火力と圧倒的な制空権を有する連合国軍に対し、日本軍は夜間突撃による飛行場奪還を試みたが悉く失敗。さらに制空権・制海権を完全に握られたことで、島への食料や弾薬といった物資補給はほぼ遮断され、前線の兵士たちは絶望的な状況に追い込まれていった。
「餓島」の惨状とケ号作戦の実行
補給の途絶えたガダルカナル島は、将兵の間で「ガダルカナル」の音に引っかけた「餓島(がとう)」という凄惨な名で呼ばれるようになった。武器・弾薬はおろか、日々の食料すら底を突き、兵士たちは野草や昆虫などを食して飢えを凌いだが、マラリアやアメーバ赤痢などの感染症も蔓延した。戦闘による死者よりも、餓死や病死による犠牲者が圧倒的に上回るという、近代戦における兵站(ロジスティクス)軽視の極みとも言える惨状を呈した。
この壊滅的な状況を受け、昭和天皇の裁可を経て大本営は1942年12月末に同島からの撤退を決定。1943年2月、駆逐艦を駆使した高速輸送による撤退作戦(ケ号作戦)が実施され、約1万名の生存将兵が奇跡的に救出された。しかし、投入された約3万数千名の将兵のうち、戦死・病死・餓死を合わせた犠牲者は2万人を超え、そのうち約7割近くが病死・餓死であったとされる。
「転進」という虚構と敗戦への転換点
ガダルカナル島からの撤退は事実上の壊滅的敗北であったが、東條英機内閣下の大本営は国民の戦意喪失を恐れ、この敗退を「転進(てんしん)」という言葉に置き換えて発表した。「目的を達成したため、他へ転じて進む」という欺瞞的な大本営発表は、その後の日本軍における情報隠蔽と戦況悪化を覆い隠す体質を決定づける端緒となった。
歴史的に見て、ガダルカナル島攻防戦の敗北は、海戦におけるミッドウェー海戦と並び、太平洋戦争における主導権(イニシアティブ)が完全に連合国軍へと移行した決定的な転換点であった。これ以後、日本軍は南太平洋から順次後退を余儀なくされ、本土防衛を見据えた「絶対国防圏」の策定へと追い込まれていくこととなる。