仏教公伝 (ぶっきょうこうでん)
【概説】
朝鮮半島の百済(くだら)の聖明王(聖王)からヤマト政権の欽明天皇へ、仏像や経論が公式に献上されて仏教が伝来した出来事。日本が東アジアの高度な思想・文化体系を公式に受け入れる契機となった、古代史における極めて重要な画期である。
公伝の年代をめぐる二つの説と朝鮮半島の国際情勢
仏教の公式な伝来(公伝)の年代については、古代の史料において二つの説が存在し、長年議論されてきた。現在、歴史学界で最も有力視されているのは538年(戊午年)説である。これは『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起』といった寺院側の記録に基づくもので、欽明天皇の治世(あるいはそれ以前の宣化天皇期など諸説あり)の戊午の年に伝来したとする。一方、官撰の歴史書である『日本書紀』は552年(壬申年)説を採っている。
いずれの年代であっても、その背景には緊迫した朝鮮半島の国際情勢があった。当時、朝鮮半島南部では新羅(しらぎ)が勢力を拡大し、百済や加羅(任那)諸国を圧迫していた。百済の聖明王は、ヤマト政権(倭国)からの軍事的な支援を繋ぎ止めるため、先進的な国家統治のイデオロギーでもあった仏教(釈迦仏の金銅像や経論など)を公式に贈り、同盟関係を強化しようとしたのである。なお、これ以前にも渡来人の手によって私的に仏教が信じられていた(私伝)が、国家の首長間で公式に伝達されたことで、仏教は公的な政治・文化の表舞台に登場することとなった。
崇仏論争の勃発と氏族間の政治対立
仏教という「異国の神(他国神)」をヤマト政権がどのように扱うべきかをめぐり、朝廷内では激しい崇仏論争が巻き起こった。欽明天皇から意見を求められた臣下の中で、渡来人系技術集団との結びつきが強く、新時代の外交・経済を主導していた大臣(おおおみ)の蘇我稲目(そがのいなめ)は「西の諸国はみなこれを礼拝しており、日本もこれに倣うべきである」として仏教の受容を強く主張した(崇仏派)。
これに対し、朝廷の神事や祭祀を司っていた伴造(とものみやつこ)出身の連(むらじ)である大連(おおむらじ)の物部尾輿(もののべのおこし)や中臣鎌子(なかとみのかまこ)は、「我が国には独自の神がおり、他国の神を拝めば国神の怒りを買い、疫病などの災いが生じる」として猛烈に反対した(排仏派)。
欽明天皇は折衷案として、蘇我稲目に個人的に仏像を授けて礼拝することを許可したが、直後に疫病が流行すると、物部氏はこれを「仏教を受け入れたための国神の祟り」と主張し、稲目の設けた寺(向原寺)を焼き払い、仏像を難波の堀江に投げ捨てた。この対立は次代の蘇我馬子と物部守屋の代まで引き継がれ、587年の丁未の乱(ていびのらん)における物部氏の滅亡、そして蘇我氏の勝利によって、日本における仏教受容の方向性が決定づけられることとなった。
仏教公伝の歴史的意義と文化への影響
仏教公伝は、単に新しい宗教が伝わったという出来事にとどまらず、日本の国家体制や文化のあり方を根本から変革する契機となった。仏教とともに、文字(漢字・漢文)、建築技術、彫刻、医学、暦学といった最先端の大陸技術・思想が組織的に流入し、これらが日本の精神文化と融合することで、日本初の本格的な仏教文化である飛鳥文化が開花した。
また、従来の氏族社会における「神道的な祭祀」に基づく統治から、仏教という普遍的な教理をベースにした「国家の徳治・法治」へと、ヤマト政権の統治理念が移行していく出発点となった。この流れは、のちの聖徳太子(厩戸王)による冠位十二階や憲法十七条の制定、そして奈良時代の鎮護国家思想や国分寺建立へと直接繋がっていくこととなる。