刈敷 (かりしき)
【概説】
山や野原の草木の葉や若枝を刈り取り、そのまま田畑にすき込んで腐らせて作る自給肥料。鎌倉時代以降、農業技術の進歩とともに広く普及し、中世日本の農業生産力を飛躍的に向上させる原動力となった。
鎌倉時代の農業技術の発展と肥料の普及
古代の日本の農業は、自然の地力に依存する部分が大きく、土地が痩せると休耕して回復を待つという粗放的な農法が一般的であった。しかし、鎌倉時代に入ると、鉄製農具の普及や牛馬耕の導入とともに、農民が自ら積極的に土地の生産性を高めようとする動きが強まった。その中で画期的だったのが、人為的に地力を回復・向上させる肥料の使用である。当時の代表的な肥料には、草木を燃やして灰にした草木灰(そうもくばい)と、採取した草木をそのまま土壌にすき込む刈敷があった。
刈敷の製法と土壌への効果
刈敷は、村の周辺にある山林や原野から広葉樹の若枝、木の葉、雑草などを刈り取って細かく刻み、田植え前の水田や畑の土中に深くすき込んで作られる。土の中にすき込まれた植物は、水や微生物の働きによって時間をかけて腐熟し、窒素などの養分を土壌に供給する。草木を燃やして作る草木灰がカリウムを多く含み即効性のある肥料であったのに対し、刈敷は分解に時間がかかるものの、遅効性・持続性の肥料として長期間にわたり地力を維持する効果があった。また、有機物を大量に土に混ぜ込むことで、土壌の通気性や保水性を改善する土壌改良材としての役割も果たしていた。
二毛作の拡大と高まる肥料需要
鎌倉時代における刈敷の普及を決定づけた最大の要因は、二毛作の開始である。畿内や西日本を中心に、夏に米(表作)、冬から春にかけて麦(裏作)を栽培する二毛作が広がっていった。しかし、同一の耕地で一年に二度も作物を栽培することは著しく地力を消耗させるため、これを持続させるためには大量の肥料の投入が不可欠であった。刈敷と草木灰による施肥技術が確立したからこそ、二毛作という土地を酷使する集約的な農業が可能になったのである。
入会地の成立と村落共同体への影響
刈敷の普及は、単なる農業技術の進歩にとどまらず、中世社会の構造にも大きな影響を与えた。刈敷や草木灰の原料を大量に確保するためには、広大な山林や原野が必要となる。そのため、農民たちは周辺の山野を特定の個人の所有とせず、村落全体で共同利用する入会地(いりあいち)として確保するようになった。入会地の維持・管理や、草木を刈り取る時期・量のルール作りは村落の死活問題であり、これを巡る協議や協力関係が、室町時代にかけて農民たちの自治的組織である惣村(そうむら)が形成されていく重要な基盤となったのである。